西の善き魔女外伝3 真昼の星迷走 荻原規子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)顔をしかめた女王|陛下《へいか 》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ]  目  次 第一章 あらかじめ失われた約束 第二章 もう一つの神話 第三章 悪党のことわり 第四章 塔の中の賢者  解説 菅野よう子 [#改ページ]  キツネがいいますには、 「あなたは、おのぞみのものは、のこらずお手にはいりましたが、わたくしのふしあわせは、どうしても、おしまいになりません。そのくせ、わたくしをすくうのは、あなたのお力だけなのです」  そして、鉄砲でうち殺して、首と四つ足をちょんぎってくださいと、またもや、涙をながさんばかりにして、たのむのでした。  そこで、王子はそのとおりにしてやりました。すると、それがすむかすまないかのうちに、キツネは人間のすがたになりました。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](グリム童話集)  [#改ページ]    第一章 あらかじめ失われた約束      一 「困難《こんなん》は承知の上でした。けれども——」  グラール女王コンスタンスは、くちびるを線になるまで引きしぼった。そのため、加齢《か れい》とともに険《けわ》しさを増した顔立ちの、頑固《がんこ 》そうな線がいっそうきわだった。  彼女のいる部屋は、星の広間に隠れるように隣接《りんせつ》した私室《し しつ》であり、大臣も側近も聖職者も入ることを許されず、侍従《じじゅう》の一人も控《ひか》えていない。出入りのできる唯一の例外は、コンスタンスおかかえの吟遊詩人《ぎんゆうし じん》だった。  ひょろりと背の高い吟遊詩人は、くすんで粗末《そ まつ》ないつもの身なりで、顔をしかめた女王|陛下《へいか 》の前に立っていた。しかし、こちらはぼうようとした顔つきである。深い感情の表れない顔、年齢を感じさせない顔の持ち主なのだ。 「——まさか、このような形で最大の障害が現れるとは。ちょっと、バード、ぬぼーとなどしていないでおくれ。そなた自身が関連する重大事ではありませんか」 「ぬぼー……ですか」  かすかにびっくりした様子で、バードは顔をなでた。 「こういう場合、どういう反応を見せるべきでしょうか。喜んでも悲しんでも変ですし」  女王にじろりとにらまれて、彼は言いなおした。 「わかっています。自分で考えます。ただいま検索《けんさく》中ですのでしばらくお待ちください」  コンスタンスは、いらだたしげにため息をついた。 「どうしてそなたはこんなにポンコツなんでしょう。わたくしは、星の楽園の人々が最新の性能をもつ審判者《しんぱんしゃ》をよこしたとは、どうしても信じられないのですよ」 「それはたしかに、疑っていいことかもしれませんね」  バードが同意したので、女王はまた腹を立てた。 「完全にばかにしています。彼らはわたくしたちの世界のことなど、いい加減にしか考えられず、ばかにしきっているのです」  やせた肩をすくめ、吟遊詩人は試みるように言った。 「もう一度、真剣に申請《しんせい》してみましょうか。もっと高性能で役に立つ三代目が必要だと」 「これ以上、代わりなどだれが寄こすものですか。何十年も前にわかりきったことを、今さら持ち出さなくてもよろしい」  女王は声をとがらせたが、それでいくらか気がおさまったようだった。続ける言葉は、口調が抑えられていた。 「……どれほどそなたをけなそうとも、そなたがフィーリとはまったく違うことは明らかです。賢者《けんじゃ》がどう言おうと、そなたは三人目の女王を承認《しょうにん》してくれる。そうでしょう?」  バードのあいまいな表情がさらにあいまいになった。 「承認といっていいものか……まだ、条件が整備されないのを感じるのはたしかです。今後のありようによっては、彼女には無理ということもあり得ますし」 「それは、どの娘《こ》にとっても同じです」  コンスタンス女王は、彼女のかたわらにある、優美な脚つきのボードにのったチェスの一式を見やった。  この部屋には、女王とともに森の星神殿から移動してきた家具が三つある。鏡台、衣装ダンス、そしてこのチェス盤《ばん》だった。どれもが金銀の象眼《ぞうがん》をほどこした逸品《いっぴん》であり、女王の居室《きょしつ》を飾《かざ》るにふさわしいが、どれもが見かけとは異なる用途をかねそなえていた。  手をのばし、ポーンの駒《こま》を一つ取り上げた女王は、もの思わしげに上下逆さにした。この小さな駒は、見たところはシンプルなデザインだが、裏側に真紅のルビーがはめこまれており、逆さに立てることもできる。 「……敵陣《てきじん》の最奥《さいおう》の目にたどりついたポーンは、クイーンに成り変わることができる。わたくしは、フィリエル・ディーを女王に含める考えを捨てません。折れるべきはフィーリのほうです」  少し間をおいてから、吟遊詩人は言った。 「……結局、問題は、フィーリの頭脳が半永久機関として形づくられていることですね。当初、これらを設定した楽園の人々には、老朽化《ろうきゅうか》の不都合など念頭になかったのです。ここまで存続《そんぞく》するものと思われなかったものですから」  女王はふんと鼻を鳴らした。 「わかりますよ。彼らの頭脳もまた、フィーリそっくりに硬直《こうちょく》しているだろうということは。柔軟性を求めた結果が、そなた程度なのですから」 「もうしわけありませんね」 「つべこべ言っても、もうしかたありません。そなたが世界の賢者になるのは、わたくしにはたとえようもなく不安だと言ってみても、さらに選択肢《せんたくし 》はないのでしょう。フィーリになりなさい。これは女王命令です」  きっぱりした口ぶりで女王は告げた。だが、吟遊詩人はぐずぐずしていた。 「あのう、陛下。そう簡単におっしゃられてもですね……」 「なんですか、そなたは。『拝命《はいめい》つかまつりました』と、そうおっしゃい」  コンスタンスはびしびし決めつけた。 「次期女王問題は、このほかにも山ほど懸案《けんあん》があることくらいおわかりでしょう。レアンドラだってアデイルだって、まだまだ援助すべきことがらを多くかかえているし、森の星神殿を与えたくらいで大僧正《だいそうじょう》がおとなしくなるものでもありません。この件くらい、そなたが考えて、そなたがことを|収 拾《しょうしゅう》しなさい」 「この件くらい……ですか」  肩までおりる灰色の頭髪に手をやって、バードは口ごもった。 「お言葉を返すようですが、一歩まちがえると世界の崩壊《ほうかい》につながる確率は、この件がだんとつに高いと思われるのですが……」 「ですから、そなたが阻止《そし》しなさい」  鋭い青い目で、女王は彼を見つめた。 「わたくしの意向《い こう》はもう言いわたしました。それ以上、わたくしにできることのない問題です。フィーリがあくまで世界の守護者を強情《ごうじょう》に主張するなら、そなたも主張してみせなさい」  バードの面長《おもなが》な顔立ちには、幼さはどこにも見当たらない。けれども、強情さに通じる自信のありかもまた見出せないものだった。 「……つまり陛下は、フィリエル・ディーが女王候補たり得なかった場合のことも、このわたしにゆだねると、そうおっしゃっているのですね?」  女王はしばらく口を開かなかった。だが、やがて、ゆっくりとうなずいた。 「そう——困難は承知の上でした」 「わかりました。拝命いたしましょう」  吟遊詩人は、それまで手にしていたつば広の帽子を頭に被《かぶ》った。そして竪琴《たてごと》を肩にせおうと、金銀の象眼のある衣装ダンスの扉《とびら》を開けた。  軽い音をたてて扉が閉じられたとき、吟遊詩人の姿は消え失せていた。コンスタンス女王はポーンの駒をもどしたチェス盤を見つめ、後悔するべきかどうか、今しばらくの思案にふけった。      *  *  *  フィリエルが、若い空色のユニコーンとともに荒れ野の散策《さんさく》を終え、ワレット村のオセット家にもうけた特設の厩《うまや》へもどってきたときだった。厩の前に、にこにこして立っている栗色《くりいろ》巻き毛の娘を見つけた。 「いやだ、マリエ、いつお里帰りしたの?」  叫び声を上げ、フィリエルはルーシファーの背中から飛び降りた。 「お元気そうね、フィリエル。うちで何か不自由していることはないかしら」 「とんでもない、すっかりお世話になってしまって。本当に感謝しているのよ、こんなに長くおじゃまするつもりじゃなかったのに……」  風に乱れた髪をなでつけ、フィリエルはきまり悪げに言った。ワレット村への滞在が長びいた理由は、ルーンにあった。ほんの一、二日の予定だったはずなのに、セラフィールドの天文台を訪れたルーンが、ひさびさの天体観測に夢中になって、いっこうに帰らなくなったのである。 「かまわないのよ、いつまでもいてちょうだいよ。うちの両親、大得意なんだから」  マリエはほがらかに笑った。ハイラグリオンで磨《みが》きをかけたマリエも、実家の裏庭で北部なまりそのままに笑っていると、前かけをつけた昔の姿がよみがえってくる。  からかいをこめてフィリエルはたずねた。 「あなたは従者《じゅうしゃ》のジョアン君と? さては、とうとうご両親にご紹介?」 「やあねえ、ちがうわよ——」  彼女が言い終わらないうちに、母屋の裏口から小麦色の頭がひょいとのぞいた。マリエの仕える姫君、アデイル・ロウランドである。得意そうに姿を現したところを見ると、マリエと同じに丈の短いスカートをはき、村娘風の装《よそお》いをこらしていた。  本人は自慢げだが、スカートからのぞく足先は小鳥のように小さく、だれも彼女を村娘とはまちがえないにちがいない。そのきゃしゃな足をせいいっぱい動かして、アデイルはうれしそうに歩み寄ってきた。 「フィリエール。ようやくルアルゴーへ帰れたというのに、あなたったら館にいないんですもの。押しかけてきちゃったわよ、わたくしたち」  アデイルの後ろから、続いてもう一人、身なりをやつしてもすぐにわかってしまう娘が歩み出てきた。つややかな薄茶の髪をした彼女は、農家の裏庭をものめずらしげに見回している。 「まああ、全部すてき。一度でいいからこういう暮らしがしてみたかったのよね……」 「ヴィンセントじゃないの。なんてお久しぶり」  息を吸いこんでフィリエルが言い、少女たちは手をとりあって再会を喜んだ。  瞳《ひとみ》を輝かせてヴィンセントは言った。 「わたくし、北国へ来たのは初めてなの。トーラス女学校以外、北部はどこも知らなくて。あなたがたは、こういうところで育っていたのね」  それから彼女は、フィリエルを頭の上からつま先までつくづくとながめた。暗緑色のベストに実用本位のベルトをしめ、下は細身のズボンという男もののいでたち。だが、磨《みが》いた銅色の豊かな髪が、どんな装飾より鮮やかにその姿を彩っている。ヴィンセントは感心した声音を出した。 「……しばらく見ないうちに、なんだかふんいきが変わったわ。女学校のあなたも人目をひいていたけれど、そうしてさっそうとユニコーンを従えていると、目のさめるようなという感じ。超然としたところが、ちょっとレアンドラみたいよ」  フィリエルは顔をしかめてみせた。 「それ、なんだかマリエにも言われたような気がするけれど、とっても不本意なのよ。レアンドラに似たいと思わないんですけれど」 「そうよ、フィリエルはぜんぜん違うわよ。すてきだと言いたいなら、もう少しましな比喩《ひゆ》をさがしてちょうだい」  アデイルが肩をもったので、ヴィンセントは首をすくめた。 「それなら取り消すことにするわ。アデイルだって似たりよったりだと言ったら、そのまま絶交されてしまいそうね」 「当たり前よ、わたくしだって心外《しんがい》ですもの」  レアンドラ・チェバイアットが、出会う男性ほぼ全員の心をとらえる美女であり、彼女がそのことに遠慮をしない以上、同性としての反感は消えるものではなかった。たとえ女王陛下が、将来の女王にレアンドラとアデイルとフィリエルを同列に並べる宣言をしたとしても、そう簡単にものごとは変わらないのだ。  同じように、貴族間の確執《かくしつ》が薄れてきたとはいえ、北部と南部の対抗意識はいぜんとして存続していた。レイディ・マルゴットはその調停者《ちょうていしゃ》として、アンバー岬の領主館に南部の客人を多く招待しており、北国は初めてと語る貴族や王族は、この夏ヴィンセント一人ではなかった。 「もどってみたら、お客があまりにどっさり滞在しているものだから、帰った気がしなかったくらいよ。フィリエルは、だからマリエのお家へ避難する気になったの?」 「それも、ちょっとはあるけれど——」  小さくうなずいてフィリエルは言った。フィリエルとルーンは、ロウランド家に認められているものの、| 公 《おおやけ》の客人になれるものではなかった。宮廷の顔見知りに出くわして、根ほり葉ほり聞かれるのはありがたくないのだ。 「——じつは、ルーンが天文台から動かなくなってしまって。天文台の観測器が修理できるとわかるほど長く、あそこにいるんじゃなかったわ」 「まあ、それじゃ、彼はセラフィールドにいるの? あなたをここへ放っておいて?」  アデイルの言い方が非難めいていたので、フィリエルはかえって弁護する気になった。 「シンベリンの森もハイラグリオンも、星の観測には不向きだったのよ。カグウェルの森もそう。今をのがしたら、今度いつ来られるかわからないから、ぞんぶんに星を見せてあげたい気もするのよ」  ヴィンセントがひどく残念がった。 「あら、すごくがっかりだわ。久しぶりにルーネット——じゃなくて、ルーンの顔をじっくり見られると思ったのに。ぜひぜひ会いたかったのよ、彼には特に」 「わたくしもよ。ここへ来れば、必ず彼に会えると思ったのに、つまらないわねえ」  フィリエルは少々驚いて、ヴィンセントとアデイルを見比べた。 「そんなにルーンに会いたかったの? 言っておくけれど、あのとんでもない無愛想、ほんのわずかもなおっていないのよ。会えばきっと不愉快になるわよ」 「そんなことないわ。あのかたの気むずかしさは、チャームポイントのうちですもの。わたくしたち、ちゃんと心得ていてよ」  やけに肯定《こうてい》的なアデイルを、フィリエルは疑い深い目で見た。 「もしかして……小説の取材?」 「それもあるわね。うーん、どうしましょう。夜まで待っても彼は帰ってこないかしら」 「今夜は晴れているから、たぶん無理ね。万が一帰ってくるとしても、明日の朝になるはずよ」  マリエが遠慮がちに提案した。 「よろしかったら、お嬢様がたもうちに泊まっていかれては? お部屋はすぐにご用意できますし、田舎の食事でよろしければ、おもてなしできると両親が喜ぶと思うんです」  申し出にまっ先に飛び上がったのは、ヴィンセントだった。 「うわあ、うれしい。そうしましょうよアデイル。わたくし、ずっと憧れだったのよ。早起きして、乳しぼりとかガチョウ番もしてみたい」  アデイルもうなずいた。 「それなら、マリエに甘えて泊めていただきましょうか。馬車を一度返して、館のペントマンにことづけるわ」 (なんだか、ちょっとあやしいような……)  不審《ふ しん》に思ったフィリエルだったが、友人がにぎやかに同じ屋根の下に泊まることが、うれしくないはずはなかった。ここ数日一人ですごして、退屈していたことも事実なのだ。おしゃべりに花がさくと、熱中して他のことは忘れてしまった。  早起きするとはりきったヴィンセント嬢だったが、結局、乳しぼりは果たせなかった。同年の若い娘が集《つど》っては無理もないが、彼女たちは話しこんだら止められず、とうとう鶏が鳴くまでしゃべり明かしたのだ。  みんな、もうろうとしてベッドにもぐりこみ、フィリエルも同様だったが、二時間ほどしたら目がさめてしまった。朝日の輝く窓を見上げて、彼女は外の物音に耳をすませた。  農家は早朝から活気づき、人々の足音や木戸を開ける音、家畜《か ちく》の声や鈴の音、犬のほえる声などが、にぎやかに伝わってくる。水汲みに、家畜の餌《えさ》やりに、乳しぼり。都育ちのヴィンセントとは違い、フィリエルにはすべてがなじみのものごとだった。  そのなかに、街道側から来た馬のひづめの音と、門のそばであいさつに答えた小さな人声が混じった。 (ルーンだ。もどってきた……)  彼女はふとんをはねのけると、手早く服を着込み、髪は手ぐしでとかすにとどめて階段を駆けおりた。  戸口を出てみると、やっぱりルーンだった。オセット氏に借りうけた灰色毛の馬から降りたったところだ。後ろの荷袋から何かをひっぱり出していたが、フィリエルに気づいてふりかえった。 「あっ、フィリエル。ちょうどよかった、話があるんだ——」  おはようの言葉も出ないのがルーンである。彼は最初の三日、朝になればオセット家へ帰ってきたが、この前日は、天体計算に没頭《ぼっとう》するあまり忘れるありさまだった。食事を差し入れにいったフィリエルさえ眼中にないので、フィリエルもあきらめて、気がすむまで放っておくことにしたのだ。  もっとも、フィリエルは、そのことをしかたがないくらいに考えていた——アデイルたちに、とんでもないことのように言われるまでは。  ルーンを見れば、彼女への気づかい以上に自分自身へのそれが皆無《かいむ 》だった。黒い服はよれよれ、黒い髪はぼさぼさ、ゆうべ食事をとったかどうかはあやしいところだ。  ため息をこらえてフィリエルは言った。 「あたしのほうも話があるのよ。でも、それより先に、寝るか食べるかどっちかしなさい。どっちにする?」  ルーンはしばし考えた。 「……食べる」 「それなら、エリザに朝ごはんを出してもらうわ。でも、その顔と手を洗わないとぜったいに食べさせないわよ」 「フィリエル、話があるんだけど——」 「あとで」  恐ろしくきっぱり言われたため、ルーンは黙った。  やがて、古なじみのエリザがルーンのために、気前よく皿にソーセージと卵をよそってくれた。大きなカップにはしぼりたてのミルク。台所のテーブルについたルーンは、最初気のりのしない様子で食べはじめたが、だんだんに馬力がかかるのがはた目にもわかった。自分が空腹だということを、ようやく心身ともに認めたと見える。  フィリエルは、夜中につまんだお菓子が胃にもたれて、ほおづえをついて彼が食べるのをながめていた。すると、ルーンがまだ食べている最中に、二階からアデイルたちが威勢《い せい》よく降りてきた。 「あらまあ、ルーンがいるわ。やっともどってきたのね」  ルーンは、目を輝かせたマリエとアデイルとヴィンセントがぞろぞろと現れるのを見て、げっという顔つきになり、口に運ぶ手を止めた。  フィリエルは、いくぶん意地悪な気分でルーンに教えた。 「言いそびれたけれど、あたしの話って、きのう彼女たちが遊びに来たことだったの。みんな、あなたにとっても会いたかったのですってよ」  アデイルとヴィンセントは、少し離れて彼をながめ、二人でこそこそとつつきあっていた。 「……ねえ、どう思う?」 「……あなたこそ、どう思う?」  ルーンはめいわくさを隠そうともせずに言った。 「食事中、気が散るから、あっちへ行ってくれないか」  マリエは苦情に耳もかさず、正面まで進み出て、そんなルーンと明るく対話を試みた。 「お久しぶりねえ、ルーン。舞踏会《ぶ とうかい》の翌日に、初めてここであなたとお茶したことを思い出すわ。そうしていると、ちっとも変わっていないわね。いっしょにトーラスへ入学したことのほうが、ずっと不思議に思えるくらい」  ルーンは苦虫をかみつぶした顔をした。 「……その話、したくないんだけど」 「あら、だめよ。何といってもトーラスの同窓生は、一生深いきずなで結ばれるものなんだから。ねえ、アデイル様?」  同意を求められたアデイルは、品よくうなずいた。 「ええ、そう。マリエの言うとおり、わたくしたちとあなたとは、たぶん運命的なつながりをもっているのよ。なぜって——」  マリエはすばやく後をひきとった。 「なぜって、アデイルお嬢様は、もうすでにあなたの運命を左右したことがあるんですもの。紙の上でだけどね」  フィリエルはあわてて立ち上がり、マリエに手をふった。 「だめだめ、それを言っちゃだめよ。ルーンには教えていないんだから」  ルーンはフォークを置くと、いすから立ち上がった。そして、そのままくるりと背を向けたので、フィリエルはびっくりした。 「どうしたの?」 「こんなに魔女のたくさんいる場所で、めしなど食っていられないよ。ぼくは、先に寝させてもらうことにする」  憤然《ふんぜん》と立ち去るルーンに、マリエが悪気《わるぎ 》なく追い打ちをかけた。 「困った人ねえ、ルーンったら。いつも照れ屋さんなんだから」 「………」  見送るフィリエルでさえ、少々同情したくなるものがあるのはたしかだった。  ルーンが行ってしまうと、おもむろに腕を組んだヴィンセントが言った。 「うーん、性格が違うのよね。とにかくその点があまりにも隔《へだ》たっているから、見比べてどうと言えないわ。わたくしに言わせてもらえば、へらへら笑っていようとしかめっ面をしようと、性格が悪いという意味では一致すると言いたいけれど」  アデイルは小鳥のように首をかしげた。 「そうかしら。わたくしは、やっぱり通じるものがあると思うわ。あればいいと考える、わたくしの願望がまさっているかもしれないけれど、でも……」 「よくわからないのは、あれのせいでもあるわね」  ヴィンセントは指で輪をつくってルーンのメガネを示してみせた。 「ルーンって、あんなものをかけていたり、女の子のかつらを被《かぶ》っていたりで、ふつうに見られる格好をするときがないの?」 「ねえ、ちょっと、あなたたち」  フィリエルはたまりかねて間に入った。 「いったい何のことを言っているの? 聞いていると、小説の取材にしてはわけありじゃないの。見比べるってどういうこと?」  アデイルとヴィンセントはちらりと目を見合わせた。それから、アデイルが言った。 「あのね、フィリエル。これは、どこにも根拠のないことだし、立証《りっしょう》の手だてもまったくないから、かるがるしく口にできないのよ。ルーンにはないしょにするって約束してくれる?」  フィリエルはまばたきして二人を見た。 「そんなに大変なこと? ルーンが何か?」 「わたくしたちが知ったのも、ほんの偶然だったの。トルバートへ出かけて、こんなことに遭遇するとはまったく思ってもみなかったわ」  そうしてフィリエルは、オセット家の土間の台所で、女王候補のアデイルと姫君ヴィンセントから、砂漠で出会った夢物語のような体験を語り聞かされたのだった。      二  フィリエルが黙りこんでしまったために、ヴィンセントがしびれを切らしてうながした。 「どうしたの。あなたがこれを聞いてどう思うか、わたくしたち、興味しんしんで待っているのに」  ほおを押さえたフィリエルは、困惑しきった声を出した。 「……だって、なんて言えばいいのか。あたし、今の今まで、これっぽっちも考えてみなかったんですもの。ルーンに血縁《けつえん》の人がいるなんて……」  ヴィンセントは重々しくうなずいた。 「それは、そうね。岩や木の又から生まれてもおかしくないふんいきをもっているわね、彼って人は」 「ちょっと、ヴィンセントったら」  ひじで小突いてから、アデイルは同情をこめて言った。 「フィリエルが動揺《どうよう》するのも無理はないわ。ルーンはたしか、ごく小さいころにセラフィールドへ来て、ずっとあなたといっしょに育っているのだったわね?」  やっとの思いでフィリエルはうなずいた。 「ええ。身よりのない子ども、旅芸人に売られた子どもとして、天文台へやってきたの。あたし……自分がルーンの一番の身内だと思って、疑ってもみなかった……」 「その不幸な身の上は、カラドボルスがブリギオンに攻めおとされて、王家が皆殺しにあった悲劇からきているのかもしれないのよ」  テーブルに身をのりだして、アデイルは声をはずませた。 「ティガも、決して自分の口からは語らなかったわ。でも、傭兵団《ようへいだん》の態度を見れば、わたくしたちには明瞭《めいりょう》だったの。彼は、滅びた王家の生き残り……ルセルがセシリアに語った、三歳で砂漠にのがれたという話を当てはめれば、王妃様のお腹にいた弟は二つか三つ年下で、まったくつじつまが合うのよ」 「ルーンがあたしたちの同年かどうか、本当はわからないのよ」  首をふって、フィリエルは力なく言った。 「正確なことは知らないの。ルーンが自分の年を、まるっきり知らなかったものだから」  アデイルは、そのくらいで引き下がるつもりはなかった。 「でも、証拠がなくても、ルーンがティガより年下なのは明らかよ。ティガは見たところ童顔《どうがん》でも、中身はとっても大人だったし、よくもののわかった人でしたもの」  フィリエルは上目づかいに彼女を見やった。 「それって、ルーンは中身が子どもだし、わからず屋だという意味ね?」 「いやね、フィリエル。視野《しや》を広げてくださらなくては」  手をひらひらさせて、アデイルは力説《りきせつ》した。 「あなたは身びいきしたいでしょうけれど、砂漠のティガ——ティグリスはね、殿方《とのがた》の最高の部類の人だったのよ。強くてやさしくて、統率力《とうそつりょく》があって、仲間に心から慕《した》われていて、勇敢《ゆうかん》でいさぎよくて、温かい心と敬虔《けいけん》さを持ち合わせている。わたくし、ユーシスお兄様にもはっきりとそう申しあげたの。ティガとルーンがもしも兄弟だったら、こんなにすてきなことはないのよ。ルーンも、見かけによらないすばらしい素質《そ しつ》を秘めていることになるのよ」  言いきるアデイルの後に、ヴィンセントが冷めた口調で言葉をついだ。 「フィリエル、あんまり彼女の言うことを真《ま》に受けてはだめよ。アデイルは、カグウェルでユーシス様がレアンドラと親密にしているのを目撃して以来、主張に偏《かたよ》りが生じるの。ティガというのは、乱暴者でそこつで、独断先行で、仲間のうちでは甘ったれで、むこうみずで場当たりで、そのくせずる賢くて油断のならないやつだったわよ。わたくし、もう一度顔など見たくない気分」  アデイルは憤慨《ふんがい》して朋友《ほうゆう》を見やった。 「まあ、わたくしの見解は、カグウェルへ着く前からのものでしてよ。あなたこそ偏っているわ、どうしてそこまで殿方に手厳しいの。作中人物に対しては、極端に夢見がちなあなたのくせに」 「あら、当然なことを聞かないで。現実が夢をぶち壊すからにきまっているじゃないの」  言い合いになる二人に、フィリエルは額を押さえてため息をついた。 「……どういう人か、さっぱりつかめないんですけど。だいたい、こんな途方もない話、信じることのほうがむずかしいわ」  ヴィンセントが不思議そうにフィリエルを見た。 「いやね、落ち込む必要はぜんぜんないのに。ティガがどういう人間か、意見が分かれるところにしろ、血縁の可能性があるという点では、わたくしもアデイルと同じ見解なのだから」  フィリエルは、さらに途方にくれる顔になっただけだった。 「東国の人だなんて……それも、王家の人間だなんて……」 「今は滅びた王家よ。その差は重要よ。現在の東岸ブリギオン帝国に、何かの力を及ぼすわけではないのだから」  アデイルはフィリエルの顔をのぞきこんだ。 「そんなにショック? ヴィンセントの言うとおり、それほど意味があると考えなくてもいいのよ。ルーンがブリギオンの帝王の息子だったら、世界がくつがえるかもしれないけれど」  フィリエルとしては、充分世界がくつがえった気分だった。これほど寝耳《ね みみ》に水のものごとを、アデイルたちから聞くとは夢にも思わなかった。 「……初めて気づいたわ。あたしって、八歳からルーンといっしょに暮らしたわりには、彼のことをよく知らないのよ……」  ヴィンセントが睫毛《まつげ 》をまたたかせた。 「ルーンの黒髪は、グラールの奥地ではちょっとめずらしかったはずよ。彼は外国人かもしれないと、ほんのちょっとも考えたことがなかったの?」 「なかったわ。ルーンはルーンだと思っていた。ルーンの両親なんて、これまで一度も想像してみたことがなかったし」  フィリエルが答えると、ヴィンセントは遠慮なく言った。 「本当におもしろいわね。あなたとルーンって、仙境《せんきょう》に暮らしてきたとしか思えない。当世《とうせい》に珍重《ちんちょう》するべき、浮き世離れしたご両人だという点が、また一つ明らかになったわね」  牧場の草地は、夏の日射しにエメラルドのように輝き、柵《さく》に沿ったポプラ並木は、そよ風に葉ずれの音をたてていた。オセット家の黒牛たちは、あるものはたたずみ、あるものはうずくまり、永遠と思われるほどのんびり口を動かしている。  フィリエルは木陰の柵にもたれ、もの思いにふけっていた。すると、いつのまに起き出したのか、ルーンがあたりに目を配り、昼下がりの農家に似あわないこそこそした態度で姿を現した。 「……アデイルたち、近くにいる?」 「三人は、まだぐっすりお昼寝よ。あたしたち、ゆうべは徹夜で話したものだから」 「たまらないよ。どうして、こんなところまでわいて出るんだか」  ルーンは、ほっとした様子で文句を言った。トーラスの同窓生と親しげに言われたことが、よっぽどこたえたらしい。 「みんなが何を言いにきたか、知りたい?」  フィリエルがたずねると、彼はむっつりした表情で答えた。 「知りたくないよ。どうせ、ろくでもないことなんだろう——きみを王宮へ引っぱり出す理由なら、いくらでも作れそうだし」 「あら、アデイルたちは、べつにあたしを迎えにきたわけじゃないのよ。どうして、そう思うの?」  フィリエルが目を見開くと、ルーンもまたびっくりした顔になった。 「ちがうのかい。他にどういう理由があって、こんなところまで来るんだ」  フィリエルはもう少しで、耳にした衝撃《しょうげき》の事実を話しそうになった。だが、彼にはないしょだったことを思い出した。たしかに、憶測《おくそく》だけで伝える内容ではないだろう。 「……彼女たち、岬《みさき》のお館が宮廷のお客でいっぱいだったものだから、気晴らしにやってきたのよ」 「なんだ、気にして損《そん》した」  ルーンは髪をかき上げた。 「アデイルたちが、女王陛下の指示だか伝言だかを持ってきたにちがいないと、ケインがそう言うものだから、ぼくも本気にしたんだよ。きみとここで別れなければならないかと思った」  フィリエルはあたりを見回したが、長身のケイン・アーベルはどこにも見あたらなかった。彼には、影のように身をひそませる能力があることはたしかだが、手を焼きながらルーンの護衛《ご えい》につとめるケインは、ルーンとフィリエルが言い争いになりそうな場面には、けっして介入するまいと決意しているふしがあった。 「……あたしがアデイルたちと、王宮へ行ってしまうと思ったのね。けれどもあなたは、まっすぐシンベリンへ帰る気だったと?」  フィリエルは静かな声で確認した。ルーンという人物は、何年彼女の相手をしていても、こういうときに状況変化がつかめない。考えもせずに答えた。 「きみに話したかったのは、そのことなんだよ。天文台で計測した数値がひどく奇妙なんだ。前に博士と観測していたころは、一度も見たことがないものだった。ぼくはとにかく、一刻も早くバーンジョーンズ博士に相談しないと」 「あなたね……」  フィリエルはこぶしを握りしめた。 「天文台の屋上で、あたしに言った言葉は何だったのよ。あなたって人、その場になったら結局、あたしより研究を優先するんじゃないの」  離れた場所から見守っているケインが、自分の予見《よ けん》の正しさをあらためてかみしめただろうということは、賭《か》けてもよかった。  むきになり、あれこれ持ち出して言い争ったあげく、ルーンは憤慨《ふんがい》して言った。 「しかたないじゃないか。ぼくだって、完全に無視できるものなら無視したいよ。きみが、女王陛下の孫娘だってことなどは。けれども、陛下がきみを次期女王の一人と考えた以上、女王候補としてのあれこれが優先されると考えるのがふつうだよ。個人的にはどんなに不本意でも」 「あたしが王宮へ行くと、自分から言ったならともかく、初めから見捨てる気じゃないの。もしもあたしが『お願い、いっしょに来て』と言っても、同じ返事をするつもりだったくせに」 「ぼくは王宮へ行けない。わかっているくせに」 「わかっているから、言っていないじゃないの」  ルーンは大きなため息をついた。 「……だったら、何がいけないんだよ。ぼくたち二人でシンベリンへ帰るなら、問題はないし、そんなに怒る必要はどこにもないだろう」  フィリエルは彼をにらみつけた。 「当たり前よ、あたしはシンベリンへ帰るのよ。だれが止めたって帰るんだから」 「止めちゃいないよ、だれだって」  ルーンもまだむっとしていたので、腹立たしげに歩き出した。 「オセットさんに話しておいてくれないか。ぼくは荷物をまとめてくるから」 「今すぐ帰るの?」 「一刻も早くと言っただろう」  フィリエルは、さっさと立ち去るルーンの後ろ姿を見つめた。寝癖《ね ぐせ》のついた髪。やせぎすな体つき。ここ一、二年でフィリエルより歴然と背が高くなったとはいえ、変わらないといえば変わらない。 (……中身だって、研究以外は幼稚《ようち 》なほうよ。自分が興味をもった方向しか見えないんだから)  ルーンの、女顔と形容することもできる繊細《せんさい》な顔立ちには、黒ぶちメガネをかけようと、しかめっ面をしようと、ふとした拍子にひどく幼げに見えるものがあるのだった。本人が望んでいる、あごひげの似あう男になるには、まだまだ相当な時間がかかることだろう。  砂漠にルーンがいる光景は、とてもではないが想像できなかった。アデイルたちは、いったい何を見てきたのだろう。 (……同じくらい腹の立つ人だったら、あたしは会いたくないな。ルーン一人でたくさんよ)  フィリエルのかたわらには、いつのまにかケインが立っていた。長身にヘルメス党の黒の帽子と衣装をまとったケインは、疲れた表情でたずねた。 「決着しましたか?」  フィリエルはつんとした。 「べつに、けんかしたわけじゃないわ。ルーンがいつまでも子どもで、わからず屋なだけよ」 「はいはい」  ケインはさからわずに相づちをうった。 「ルーンがその気になった以上、即刻隠れがにもどりたいのが実情です。しかし、セラフィールドにねばったのもルーンなら、たちまち帰ろうと言うのもルーンですから、あなたには同情しますね。お従姉妹《いとこ》どのや友人と別れて、本当にかまいませんか?」  フィリエルはくちびるを結んだが、すぐにうなずいた。 「ええ、とっくの昔に選んだ道ですもの。たとえ表舞台に出られなくなっても、ルーンの行くところについていくと。アデイルたちには会ったばかりで、残念は残念だけど、ここへあたしだけ残る気はないわ」  ケインは少女の、意志の強そうな琥珀《こ はく》色の瞳や表情豊かな口もとを見つめた。それらは強靱《きょうじん》さの予兆を秘めているものの、まだ初花《はつばな》のういういしさであって、風雪《ふうせつ》を経た彼の目には、あどけなくも映るものだった。 「……グラールの女王陛下が、どんな深謀遠慮《しんぼうえんりょ》のもとにあなたを三人目の女王にとおっしゃったのか、正直いって、わたしは計りかねているのですよ」  ためらう口調でケインは続けた。 「フィリエル、そろそろ女王陛下のご指示があってもいいころあいだと思いませんか? あなたが異端《い たん》組織のヘルメス党に加わっていることを、陛下はどう把握《は あく》しておられるのでしょうね」 「さあ、少なくとも、アデイルたちは聞いてこなかった様子よ」  フィリエルは肩をすくめた。 「それに、陛下がどうお考えであろうと、あたしはあたしでいるしかないもの。ディー博士の娘でいるということよ。そのことは、陛下も充分ご存じでいらっしゃるはずよ」  ケインはうなずき、それ以上は何も言わず、ルーンと同じ方向へ去っていった。フィリエルは自分の言ったことをかみしめ、さらに考えた。 (……それでも、あたしが、父親の研究を継ぐことができなかったことはたしかだ。研究の道を歩むのはルーン。ヘルメス党の道も実際はルーンのものなんだわ……) 「ごめんなさい。会えてうれしかった。それは本当なのよ」  ひたすらにわびながら、フィリエルはルーシファーの鞍《くら》に手をかけた。三人の娘は、彼女が鮮やかな空色の背に収まるのを見守った。 「しかたがないわね、あなたがわたくしたちよりルーンを取るのは……でも、もう少し遊んでいられると思ったのに」  アデイルがくちびるをとがらせて言った。 「今だからこそ、遊んでいたいのに……年をとっておばさんになってから、遊ぶ時間があっても遅いのよ」  フィリエルはほほえんだ。 「そんなことはないかもよ。そのころには、いろいろと情況が変わって、あたしたちも王宮へ行けるかもしれない。あごひげをはやしたルーンをつれていくわよ」  ヴィンセントとマリエが叫んだ。 「ぜったいに、いや!」  門の近くには、すっかり用意をととのえたルーンとケイン、ケインの部下が待っており、裏庭でさわぐ少女たちに不審な顔を向けていた。いつまでも待たせてはおけず、フィリエルはユニコーンを数歩歩ませた。 「それじゃ、みんな元気でね」 「フィリエル」  ふいにアデイルは、真剣な表情で呼び止めた。 「わたくしたちがお話ししたこと、他の人にはもらさないでね。本当は気になるの。たとえば、もしも、レアンドラがこの情報を聞き込んだら……ブリギオン攻略《こうりゃく》をあれこれ画策《かくさく》している彼女ですもの、真偽《しんぎ 》に関係なく、どう利用するかわからないわ」  フィリエルはうなずいた。レアンドラにつけこまれることの怖さはよくよく承知している。 「大丈夫よ。もらすはずないわ」 「それから、気になるの。もしも、女王陛下が……」  アデイルは言いさして思いなおし、強く首をふった。 「ううん、わたくしの考えすぎだわ。今のはなしよ。でも、身辺には本当に気をつけてね」 「あなたもね」  明るく言って、フィリエルは今度こそルーシファーを進め、ふりかえって手をふりながら、他の面々とともに門を出ていった。アデイルたちの知らない、中部地方のどこかにある、ヘルメス党の本拠地へとその身を運ぶために。  彼らの姿が小さくなるまで見送ってから、ヴィンセントは隣に立つアデイルを見やった。 「もしかして、あなた、一番肝心なことはフィリエルに伝えなかったとか?」 「ううん……よかったのよ。懸念《け ねん》を言ってもしかたないし」  アデイルはいくらか自信なげに言った。 「フィリエルは、わたくしの心配など必要のない子ですもの。きっと大事なものは自分で勝ちとるわ」 「ええ、フィリエルならぜったい大丈夫」  マリエが晴れやかにほほえんだ。 「彼女がだめになるのは、ルーンがいないときだけですもの」  気候がよいこともあり、フィリエルたちのシンベリンへの旅は順調だった。さしたる苦労もなくルアルゴーとドリンカムを抜け、三日後には中部地方へ入っていた。  現在、街道北部の治権《ち けん》はロウランド家のものだった。整備された道を行き、途中の旅籠《は た ご》で寝泊まりする、ふつうの旅人でいられたのだ。苦心するとしたら、ルーシファーの寝場所だけだった。  だが、中部地方まで下ると事情が異なってくる。グラール中部は、北部の発達した地方都市と南部の中心地をつなぐ、中継点としてのみ存在する地方だった。  土地は女王|直 轄 領《ちょっかつりょう》に属するが、たぶん、下賜《かし》しようにも欲しがる貴族がいないためだと思われる。中部は、大陸の西岸に位置するグラール国の海岸線が、東側のファーディダッド山脈にぐっと近づいた、いわば砂時計のくびれに相当する地方でもあった。その大部分は、いまだに人の手にあまる深い森が覆《おお》っている。  中部地方で大きな町が発達しないのは、この古びた森のどこかに竜が棲《す》むと恐れられるせいだった。たしかに、百年前にはその記録が存在する。けれども、今ではフィリエルも、この森で本当に怖いのは竜ではなく、未開地へ逃げこんだ無法者たちなのだと理解していた。  星仙《せいせん》女王の力も、森の中心部で治安を維持《いじ》するには及ばなかった。ハイラグリオンの丘へ続く南の平原までの一、二日は、おいはぎもまかり通る、国内でもっとも危険な行程《こうてい》になっているのだ。  とはいえ、その山賊《さんぞく》が仲間のこともあり得るヘルメス党にとっては、危険も少々意味を変えるものだった。中部がきれいに開拓《かいたく》され、国家の目がいきとどくことのないよう願わなくてはならない。シンベリンと呼ばれるこの森の奥地にこそ、貴族の私兵などの手が届かない、異端の人間にとってのパラダイスがあるのだった。 「最近は、そうも言えなくなりましたがね」  ユニコーンと馬を並べるケインが、顔をしかめて言った。 「われわれが、シンベリンを一度放棄してカグウェル国へ出ることになったのは、リイズ公爵《こうしゃく》の関係者にかなりの内情を知られたからです。その中にメニエール猊下《げいか 》がいたとわかっている以上、再び移ることになるのは時間の問題ですからね」 「南の国々はだいぶ政情《せいじょう》が落ち着いたと聞いたわ。もう一度カグウェルへ行くの?」  自分はともかく、南育ちのルーシファーは喜ぶだろうと思いながら、フィリエルはたずねた。 「まだまだ情報部と検討中です。しかし、留守をしたここしばらくの間に、何らかの進展を見ているかもしれませんね」  これは大きな問題なので、フィリエルは、しばらく口をきかなかったルーンに声をかけた。 「どう思う、ルーン」  ところが、彼は他の考えに没頭《ぼっとう》しているらしかった。フィリエルの声も耳に入らず、ぼんやり馬にゆられている。向きなおったフィリエルは、怒った口調でケインに言った。 「ああいう頭にくるところ、父にそっくり。天文台へ行ったら、どうやらよけいに似てきたわ」 「天文台で、何か発見があったようですね」  ケインは穏やかに言ったが、薄青い瞳が微妙におかしがっていた。 「ルーンは、そんなにディー博士に似ていますか」 「外見じゃないのよ」  何がおかしいのかわからないフィリエルは、不服そうにのべた。 「あの弟子は、父のだめな部分までそっくり受け継いだの。ずぼらなところとか、自分勝手なところとか」 「彼も、大変は大変ですね。あなたがそうして偉大な父君といつも比べるから……」 「どこが偉大なの。あれはばか父よ」  本当は、フィリエルにもわかっていた。彼らが上の空になるのは、研究上の重要なポイントをつかんだときなのだ。  それでも、だからといって無視される不愉快さがへるわけではない。幼いころに感じた、取り残される不安が消えるわけではなかった。  フィリエルがヘルメス党に加わってよかったと思う点は、ルーンにそっちのけにされるときに、その気持ちを汲《く》む話し相手がいることだ。もっと限定して言えば、ケイン・アーベルとおしゃべりできることだった。  女の子同士のおしゃべりは楽しいが、彼女たちは、研究従事者のことが理解できない。その点ケインは、ルーンに影のように付き添っている現在、フィリエルがもっとも自分を分かちあえる人物だった。  女主人の気持ちを察するのか、空色のユニコーンが、『この男はフィリエルにワルイコトをしない』とさとった、最初の男性もまたケインだった。  ルーシファーには、男性を自分のライバルと見なして排除《はいじょ》するやっかいな性癖《せいへき》があるが、最近はヘルメス党の数人を仲間と認め、餌《えさ》をねだるなど心を許している。もっともルーンだけは、いつまでたっても、常時ユニコーンに深く疑われ続けていた。 「ねえ、ケイン。ルーンの外見は、外国人に見えるかしら……」  ぽろりと言ったフィリエルに、ケインは少々びっくりして眉を上げた。 「グラール以外の出身という意味ですか? ヘルメス党では国籍に関心がないので、気にしたことはありませんが」 「そうよね。関係ないわね……」  フィリエルはさらに言葉をつごうとして、思わず息をのんだ。  党でもっとも身近な人物とはいえ、ケインもまた遠くへ行ってしまうことはある。それは、彼らの身に危険がせまった場合だった。  前方には老木が枝を重ね、隧道《ずいどう》のように見える道が延びているが、彼ら以外に人影はない。後方のやや木立の透《す》いた道も、通る人間はだれもいない。それでもケインは、敏感に気配を感じとっていた。  彼の表情にフィリエルが気づいたとき、ケインはすでに行動をおこしていた。その手から鋭利《えいり 》な投げナイフが飛んだ。  彼の腕の一振りで、三本のナイフがふしくれだった幹に突きささる。刃の一つが老木に縫い止めたものは、蛇《へび》のからんだ杖の描かれた徽章《きしょう》だった。すばやくそれを認め、ケインは続投《ぞくとう》を手控えた。  ナイフのささった幹を回って、淡い金髪ののぞく黒|頭巾《ず きん》が用心深い態度で現れた。 「……もうちょっと手加減してほしいですね。ここで殺されてはみもふたもない」 「この程度がよけられないやつは、最初から部下に加えないぞ。どうした、一人か。片割れは?」  ケインがそうたずねたのは、姿を見せた青年が双子のディルとダンの片方だったからだ。フィリエルは胸をなでおろしたが、どちらの一人か判別できず、あいさつできずに困った。  しかし、すぐに彼女も思い知ることになった。この双子が一人しか現れないときは、かなりの緊急事態なのだ。  青年は、目に硬い表情を浮かべて告げた。 「ダンはバーンジョーンズ博士に同行中です。シンベリンが異端《い たん》審問官《しんもんかん》の襲撃《しゅうげき》を受けました。僧兵を六十人あまり従えた連中で、戦闘員が攻撃を受け、一部に捕虜《ほ りょ》が出ています」  ケインもまなざしを険しくしたが、態度はそれほど変わらなかった。凶報《きょうほう》を耳にしたとは思えないほど穏やかにたずねた。 「異端審問官はまだ施設内に? それとも、すでに捕虜をつれて引き払った後なのか」 「引き払った後だったら、知らせに来ないでわたしも逃げます。敵よりアーベル様のほうが怖いです」  肩をすくめたディルの返答に、ケインはかすかにほほえんだ。 「勝負はまだか。それならいい」 「バーンジョーンズ博士は無事なんだろうね」  ルーンも口をはさんだ。事態をさとってさすがに目がさめたらしい。 「捕まったのはだれなんだ。エイハムやスミソニアンやヒースや——」 「彼らはみんな無事です。シンベリンの脱出ルートは、ちょっとやそっとで押さえられません。今はミルドレッド公国への道をたどっています。捕らえられたのは、ほとんど周辺の者だけで」 「とはいえ、見殺しにはできない」  ケインが後をひきとった。彼はルーンとフィリエルを交互に見て、抑えた口調で言った。 「少々予想より早かったとはいえ、充分あり得た事態でした。そしてこれは、ある意味では好機到来とも言えるのです。襲った相手が大物であればあるほど、われわれを狩る連中への報復《ほうふく》がかなう。シンベリンは、年季の入った施設です。なのにやつらは、その仕掛けの多さを知らない」  ケインが抑えているのは、どうやらうれしさであるらしかった。フィリエルはびっくりして見つめた。 「待って、ケイン。女王陛下はあたしに、ヘルメス党を認める言い方をなさったのよ。それに、ロウランド家もチェバイアット家も、今では考え方を変えている。これからは、闘いはきっと無益《む えき》よ。よく考えたほうが——」  彼女の言葉を、ケインはさえぎった。 「ディルが僧兵と言ったでしょう。われわれを狩る者は、女王と貴族たちばかりではないのです。その了解とはべつの次元でこり固まった連中がいる。しかも、最近はその勢力をのばしつつあるのだから」 「それなら、メニエール猊下の——?」 「言うまでもありませんね」  フィリエルも口をつぐむしかなかった。現在、大僧正メニエール猊下の一派は、陰にまわれば女王の制止すらきかない勢いを持っているのだ。  ケインは、むしろ明るい口調で告げた。 「わたしはこれから現場へ急行します。森に散っている戦闘員を集め、反撃を繰り出さなければ。あなたがたは、ミルドレッドへ直行してください。合流地点はディルが知っています」 「ぼくもシンベリンへ行く」  ルーンが申し出た。ケインはというと、無言で彼を見やっただけだった。その沈黙に首をすくめ、ルーンはぶつぶつつぶやいた。 「……ぼくだって、戦闘を知らないわけじゃない。前にカグウェルでだって……」  相手にもせず、ケインはディルを見た。 「この二人の警護《けいご 》をまかせる。見た目より大変だが、おまえにたのんだぞ」 「心得ました」  澄んだ青い目をした双子の片割れは答えた。      三  ケイン・アーベルは部下を率い、街道を離れて、踊る影のすばやさで森の彼方へ消えていった。フィリエルとルーンのかたわらには、若い金髪の青年だけが残る。彼らはしばし、ケインたちの消えた森陰に見入っていた。 「……行ってしまったわね。うれしそうに」  ため息まじりにフィリエルはつぶやいた。 「当然だろうな。彼、相当辛抱してぼくたちについていたから」  わけ知り顔に言うルーンを、フィリエルはおかしそうに見やった。 「あら、けっこうよく見ているじゃないの」 「きみだって、人のことは言えないよ」  ルーンはふり返ってディルを見た。 「それじゃ、ケインを先へ行かせたところで、ぼくたちも行くよ——シンベリンへ」 「はあ?」  ディルは信じられずに聞き返した。 「ケインはだめだと言わなかったよ。ただ、黙っていただけで」 「その前にはっきりと指示されたでしょう。ミルドレッドへ直行しろと」 「あれは、ケインをわずらわせずに行けという意味だよ」  けろりとして答えるルーンに、ディルはますますあきれ顔になった。 「ふざけたことを。戦闘状態にあるシンベリンへ行って、あなたに何ができます。わざわざ危険をふやしてどうするんです」  ルーンは頑《がん》として主張を変えなかった。 「何かはできるよ、その場にいれば。捕らえられた仲間のためにできることはある。それに……ぼくはこの目で確かめたいんだ。異端審問官というやつらを」 「確かめてどうなるんです」 「できることなら、たずねてみたい。どうして異端者を狩るのか。異端者の何がそんなに許せないのかを」  ディルはうんざりしたように両手を広げた。 「やめてくださいよ。建国当時からある事実に、今さら疑問を投げかけて何になります。研究者は研究者らしく、われわれに守られていればいいんです」 「ヘルメス党では守る者と守られる者を二分すると、いったいだれが決めたんだ?」  灰色の瞳をけわしくして、ルーンは彼を見つめた。 「バーンジョーンズ博士のような、高齢の人たちが保護されるのはよくわかる。けれども、研究者は闘えないなんて、だれが決めたんだ」  弱った様子で、ディルは短い金髪をかいた。 「理屈をこねないでください。われわれ戦闘員は、そういうのが苦手なんだから。あなたがたの頭脳を、むやみに葬《ほうむ》らないためのヘルメス党である以上、われわれは守るんです。そうでしょう」 「じいさんになるまで生きのびたら認めるよ」  ルーンは早くも馬の向きを変えさせていた。 「もしもぼくが、これからヘルメス党の組織で一生を終えるなら、今、シンベリンで行われることを見過ごしにはできない。敵なら敵を、闘いなら闘いを、自分の目で見定めておかなくては」 「お待ちなさいったら。いったいあなたは、フィリエル姫をどうなさるおつもりなんです」  ディルの指摘に、ルーンは初めて少したじろいだ。後ろめたそうに、ちらりと彼女を見る。 「……もちろんフィリエルは安全であるべきだよ。だから、きみが警護を命じられただろう」 「とぼけないでください。わたしはお二人をと命じられたんです。道を分かつなんて許されませんよ。ここにはダンもいないんだから」  ディルが腹を立てて言い返すうちに、フィリエルは陽気な声で告げた。 「べつに問題は起こらないわよ。あたしもシンベリンへ向かうのだから」  ディルは今度こそ仰天したらしかった。うろたえた顔でフィリエルを見た。 「かんべんしてくださいよ。お願いですからルーンの勇み足を止めてください。本来、そのお立場でしょうに」 「ううん、止めないわ。ルーンの言い分のほうが正しいと思うから。あたしも同じ気持ちだもの」  フィリエルは自分もユニコーンの向きを変えさせた。 「あたしだって、行けば負傷者の手当てくらいできるのよ。それに、あなたが思っているほど危険に無防備でもないわ。ルーシファーがいるもの」  空色の首筋をなでてやって、フィリエルはさらに言った。 「この子、いざとなったら味方の戦力にもなるわ。故意に人を傷つけさせるのは、最後の手段にしたいけれど。あたしが行けば、そういう加勢もできるのよ」  ディルは二、三度口を開け閉めしてから、ルーンを見やった。 「いいんですか……本当に?」 「そのユニコーンが、フィリエルを守るということは請けあうよ。たぶんね」  ルーンはいくぶん機嫌の悪い声を出した。 「南下してミルドレッド公国へ出ようとするなら、どのみち、そいつのおかげで悪《わる》目立《めだ》ちしすぎるだろう。どこかでファーディダッドの山越えをするなら、シンベリンの脱出ルートを行ったって、そんなに変わらないじゃないか」  フィリエルはうなずいた。 「本当にそうよ。決まったら早く行きましょう」  肩を落としたディルは、深々とため息をついた。 「……アーベル様の言った本当の意味が、今、ようやくわかりかけてきましたよ……」  危険に直面することはわかっていたが、それでもフィリエルは、ルーンが逃げようとしなかったことがうれしく、なにがなし誇らしかった。  ヘルメス党はいつのときも、その日の生存を闘いとっているのだ。王立研究所のような保護もなしに、異端の人々が研究|三昧《ざんまい》に暮らすためには、ケインたちが殺し合いをして狩る者を排除する必要がある。ルーンには、そのことがよくわかっているのだ。 (そして、あたしも……)  守られて目をそらせばすむことではない。そこにある対立の事実を、無益な闘いがあることを、自分たちも直視しなくてはならないのだ。今回、ルーンがついて来るなと言わなかったことも、フィリエルにとってはうれしかった。  街道をはずれると、前方はたちまち馬一頭すり抜けるのがやっとの木立になる。しばらくは縦列になって進んだ彼らだったが、小さな空き地に出くわすと、ルーンは苦労してフィリエルに並んできた。  ルーシファーは、彼が近づくと見るやいなやシュッと言って脅しをかけた。ケインだったら、絶対にしないはずなのだが。  ルーンはおもしろくなさそうに言った。 「さっきはなりゆきで認めたけれど、ユニコーンをあんまり過信するなよ、フィリエル。脳みそはトカゲ並みなんだから」 「そんなことないわよ。あたしが言ってきかせること、ずいぶんよくわかるのよ、この子は」 「ぼくを攻撃するなとは、一度も言ってきかせないみたいだね」  どうやら拗《す》ねているので、フィリエルはおかしくなった。 「それは、言ってもむだよ。口にする前に感じとってしまうんだもの」 「そいつがきみと一心同体なら、そいつの行動も、きみの気持ちの内じゃないか」 「ばかね」  フィリエルは肩をゆすった。 「ルーシファーがあなたに一番やきもちを焼くのは、いったいなぜだと思っているの?」  けれども、ルーンは考えてみる様子がなかった。空き地も終わりかけていたのだ。 「とにかく、ユニコーンを過信して危険に飛びこんではだめだよ。隠れがに近づいたら、ぼくかディルが合図するまで、きみは物陰に隠れているんだ。いいね」 (……まったく、この人は、遠回しな言い方が少しも通じないんだから)  ルーンの顔をぬすみ見て、フィリエルは考えた。この場でストレートにキスしてあげたなら、ルーンといえども理解するのだろうが……  しかし、たとえ向かいあうことができても、そんなことをすればルーシファーが暴れだすにきまっているし、情況がそれどころでないのはたしかだった。フィリエルは、残念に思いながらも甘い考えを捨て、気をひきしめてかかることにした。  しばらく行くと、とうとう馬に乗っては進めない木立と急斜面に行きあたった。このまま行ってもファーディダッドの峰《みね》へ向かうだけだと、だれもが思うこの坂の向こう側に、ヘルメス党の隠れががある。  彼らの馬は、乗り手が離れても谷回りの道を進んで隠れがにたどりつくよう、訓練がほどこされていた。そちらの道は遠回りだが平坦《へいたん》で、数カ所の見張り場から近づく者を監視できるようになっているのだ。慣れた馬たちは、先行するケインたちの馬がたどった匂いを感じとり、早くも頭をそちらへ向けていた。  ただ、ルーシファーは離れることをいやがって、ちょっぴりぐずった。だが、彼も急斜面の上り下りは苦手だった。不満そうにルーンに向けて角をふりたてていたが、とうとうあきらめ、馬たちを追ってとことこと駆けていった。 「この経路に伏兵《ふくへい》がいるとは思えませんが、それでもなるべく、音を立てないようにしてください」  厳しい表情でディルが告げ、先にたって斜面を昇りはじめた。  フィリエルは、ルーンが黒ぶちメガネをはずして内ポケットにしまいこむのを見た。ルーンが屋外でメガネをはずす気になるのは、壊すことを危ぶむときだけだ。彼が危険にふみこむ覚悟をしたしるしだった。 「フィリエルは後ろから来て。敵兵が見えたら合図するから、すぐに止まるんだよ」  急斜面をしばらく苦労して昇ると、それとわからないシンベリンの外郭《がいかく》を越える。今度は急な下りになるが、それでも施設は見えてこない。隠れがの内部が目にできるのは、しかるべき道を通って洞穴《ほらあな》をくぐり、第二の壁を越えてからだった。  岩壁を抜けると、今度こそ見晴らしが得られる。切り立つ岩の下には緑の窪地《くぼち 》があり、いくつかの建物が木の間に見え隠れしていた。それらはひなびた山村に見え、眠ったように穏やかだ。  ディルは用心のために短剣を抜いたが、彼らを出迎える敵の姿はなかった。ただ、仲間の見張りもまた姿を消していた。 「……妙に静かだな」  ディルはつぶやいた。 「のろしの煙すら上がっていない……中庭に集結しているのかもしれないが」  中庭とは、木立に隠された中心部を指す名称だった。石積みの壁に囲まれた、館の規模をもつ研究施設がある。村に見える建物は隠れみのなのだ。ルーンがたずねた。 「異端審問官は、中庭まで入ったのか?」 「わたしがここを出るときはまだでした。でも、アーベル様が故意に呼び入れたかもしれませんね」 「とにかく急ごう」  彼らは最初のうち、姿を見られないように用心して道を下ったが、徐々にそれも放棄《ほうき 》して先を急いだ。人影をどこにも見かけなかったのだ。ふだんなら、農夫のふりをしながら外敵をうかがう仲間がいるはずなのに、それらの人々にも行きあわない。 「これは、どう考えてもおかしな事態です」  不安をとうとう顔に出してディルが言った。 「戦闘の情報が一つも入らないなんて。こんなことがあっていいはずがない」 「来てみてよかったと、本気で思うよ」  ルーンは動じずに言った。 「ケインの手にもあまる敵がいるとしたら、それが本当のぼくたちの敵にちがいない」 (本当の敵……)  フィリエルはルーンの言葉を胸に刻んだ。ラヴェンナとか、レアンドラとか、リイズ公爵とか、メニエール猊下とか——ひいては楽園に住むこの世の支配者とか——敵をあちこちに作ってきたフィリエルだが、究極の敵を思い浮かべたことは、まだ一度もないのだった。  研究施設の外壁を覆う木立まできたところで、ルーンがとうとうフィリエルをふり返った。 「フィリエル、ここまでだ。これ以上は安全が確認できるまで、きみをつれていけない。聞き分けてくれるね?」  そこは、ルーシファーの厩の建つ場所から遠くない地点でもあった。ルーンの意図を察して、フィリエルはたずねた。 「ルーシファーがもどってきたら、あたしも行っていいのね?」 「気にくわないけれどね」  本当に不本意だという顔で、ルーンは認めた。 「あいつはたしかにきみの武器になる、そういう意味ではね。でも、たのむから慎重に行動してくれ」  フィリエルは、暗灰色のルーンの瞳を見つめた。メガネ越しでない、じかに見る彼のまなざし。そして強く思った——メガネがあろうとなかろうと、これは自分の一番大事な瞳だということを。 「……わかったわ」  たまには折れることも必要だろう。そう思ったので、フィリエルはおとなしくうなずいた。けれども、ルーンとディルの背中を見送りながら考えたことは、ここまで来て後に残るくらいなら、最初から来なくても同じだということだった。  しばらくのあいだは、それでも、ルーシファーの帰りを待ってみた。だが、結局頭をふってため息をつくことになった。 (……駆けつけるはずがないのよ、あのルー坊が。道の途中で、チョウでも追いかけているにちがいない)  トカゲ並みだとは思いたくないが、ルーシファーに忠犬のふるまいを期待するのは無理だった。ユニコーンは、たいへん気の散りやすい生き物なのだ。フィリエルが目の前にいるならともかく、たづなを離せば最後、教えたことなど守らずに、遊んでしまうに決まっている。 (かまわない。行ってみよう……)  開けた場所に注意しながら先へ進むと、木立の向こうに中庭を囲む石壁が見えてきた。壁は高く、この場所からは正門へも裏門へも遠い。けれども、フィリエルはケインの利用する隠し口を知っていた。少し思案したが、そこから入り込むことにした。  ツタのはう石壁を手で探り、鉄の輪を見つけ出す。鍵《かぎ》をはずし、体重をかけて引っぱると、石壁は彼女がやっとすり抜ける幅に細く開いた。中にもぐりこめば足元には石段があり、地下の通路に通じている。  真っ暗なのが玉に傷だが、慣れていれば明かりを点さなくても、壁の刻《きざ》み目をさわって位置を確認することができた。フィリエルは前方の物音に耳をすませたが、ディルとルーンがここを行ったかどうかはさだかでなかった。ややためらったものの、壁を探って用心深く石段を降りていった。  研究施設の地下通路は古いものだが、石の床はよく整備されていて、見えなくてもつまずいたりしない。中庭の下を縦横《じゅうおう》に道が通っており、ケインならば全部を知りつくしているのだろうが、今のところフィリエルは、自分が寝起きした建物へしか歩けなかった。それでも、途中いくつかの場所から階段をのぼれば、警備員の詰め所や食堂の廊下などに出ることができる。  二度ほどそっと上をのぞいてみたが、うかがうあたりに人の姿はなかった。何十人も来たという僧兵はどこへ行ったのだろう。迎え討つと言ったケインはどこへ消えたのだろう。  それに、ルーンたちが地下を利用しなかったことも今では明らかだった。独りぼっちの不安をつのらせながら、フィリエルは先へ進んだ。  とうとう研究者の使う住居まで来て、フィリエルは壁から廊下へしのび出た。あたりを用心深く見回したが、ここも静まりかえっている。目に入る範囲には、ペンやら紙やら衣類やらが点々と落ちていて、研究者たちがあわてて避難する様子が目に浮かぶようだった。  共同の居間をのぞきこむと、書棚の本が乱雑に床に散らばっていた。開け放しの窓から風が吹きこみ、開いたまま落ちた本のページをパラパラとめくっている。動くものといえばそれだけだった。フィリエルは、取り残されたような気分を味わい、その場にたたずんだ。 (……ヘルメス党の人たちは、こうして逃げ続けながら生きているのだわ。定住することもかなわず、それでも研究することをあきらめないで……)  フィリエルは風にめくられる本を見つめた。ディー博士の消えた書斎に立ったときのように、胸をしめつけられる思いがした。これは、どうにもならないことなのだろうか。彼らはそれほどに、この世の悪を行っているというのだろうか……  風に髪の房をなぶられ、顔を上げたフィリエルははっとした。開いた窓の外に、石だたみの広場を歩む人影が見えた。ようやくこの場で見かける他人の姿——ケイン・アーベルだった。  彼は部下も従えず、もの思いにふけるように広場の中央へ向かっていた。その先には、水をたたえた石造りの水盤がある。出かけたときの勢いは見られず、まったく警戒を解いた歩きぶりは、もはやこの場に倒すべき相手がいないことを示していた。 「ケイン!」  フィリエルはとっさに庭へ走り出ていた。その一瞬は、ケインに叱責《しっせき》されることも念頭になかった。  だが、広場に飛び出したフィリエルの背後で、ルーンが叫ぶのが聞こえた。 「危ない、フィリエル。行っちゃだめだ!」 (えっ……)  すでに身を隠すことなど考えていなかったフィリエルは、四方から見通せる広場に飛び出してしまったことに気づいた。思わず足を止め、ふり向くと、建物の陰から駆け出すルーンと、それに続くディルの姿が見えた。 「だめだ、フィリエル。そいつはケインじゃない!」  息をのみ、自分が向かおうとしていた人物に視線をもどしたフィリエルは、ルーンが正しいのを認めた。ふり返った男は、のどかな口調で話しかけた。 「うーん、たしかにあなたはそそっかしいですよ。女王候補なら、もうちょっと慎重さを身につけないと。まあ、わたしとしては、あなたに会うために待っていたんですけどね」  ケインと同じ黒服、ヘルメス党の黒い帽子。長身の背かっこうも同じであり、面長の顔立ちはよく似ている。けれどもケインは、これほど間のびした表情を浮かべなかったし、そういう口調でも話さなかった。  ようやく息を吸うことができて、フィリエルはささやいた。 「……あなた、バードね」  女王陛下の吟遊詩人がそこに立っていた。      四 「早くさがって。まったく、きみって女の子は」  血相を変えたルーンが飛んできて、乱暴にフィリエルを引っぱりよせた。かなり痛かったが、自分の軽はずみを思えば文句を言えなかった。 「あわてないで、ルーン。ディルもはやまらないで。これはバードよ」  彼らが相手に短剣をつきたてかねなかったので、フィリエルは急いで止めに入った。 「この人、何もしやしないわ。まちがえたけれど、今では知っているの。バードなのよ、この人」  ルーンの殺気《さっき 》だっていたものが、いくらか冷静さをとりもどし、目の色がおさまった。 「きみが前に言っていた、妙ちきりんな吟遊詩人って、こいつのこと?」 「そうなの、彼よ」 「どうして女王陛下の部下が、ケインに化けるんだよ」  フィリエルは肩をすくめた。 「それは知らないけれど、ケインもハイラグリオンでは吟遊詩人に化けていたのよ」 「油断しちゃだめだ、フィリエル」  バードは手ぶらで立っており、どこにも争う様子を見せない。だが、ルーンは警戒心を解かなかった。 「だれもいなくなったシンベリンに、こいつ一人がいることだけで怪しいんだ。何もしないなどと、決めつけるのは早すぎる」 「正しい判断ですね」  吟遊詩人が認めた。彼はあごの先をなでると、ものめずらしそうに黒髪の若者を見つめた。 「そちらがルーン? フィリエルを異端のヘルメス党へつれこんだ人物? たしか、セラフィールドの幼なじみでしたね」  ルーンはむっとした顔を向けただけだった。かわりにフィリエルがたずねた。 「本当にあなた、どうしてここにいるの? 何をしに来たの?」 「それはもちろん、仕事をしにきたのですよ。女王陛下の命令が下れば、仕事に従事しなければなりません——わたしは、異端審問官ですから」  バードは、たいそう気軽にその言葉を吐いた。フィリエルとルーンが、めんくらって絶句したほどだった。  行動に移ったのは双子のディルだった。目にもとまらぬ速さで動き、あっというまに吟遊詩人の右腕をねじり上げて、首筋に短剣を押し当てていた。 「言え。基地のみんなをどうした。先に来たはずのアーベル様はどこにいる」 「暴力はいけませんね」  バードは困り顔で言った。いぜんとして緊張感がない。 「そんなことをしなくてもしゃべりますよ。ケイン・アーベルなら、ここにだれもいないことを知って、ミルドレッド公国への道を行きました。研究従事者の安否をたしかめるつもりでしょう」  ディルはさらに詰問《きつもん》した。 「なぜ、ここにはだれもいない」 「消去の決定が下ったからです。聖堂関係者と女王陛下の双方で同時に」  吟遊詩人は、これまたあっさりと言った。 「具体的に言うと、メニエール猊下の放った僧兵たちには、わたしが途中でお帰りねがいました。竜に襲われて退却したと、彼らの上司に報告が届くことでしょう……そう信じているので、もの笑いになるのが気の毒ですが。しかし、女王陛下のご意志が優先されますのでね。ヘルメス党周辺部の人々は、アーベル氏の指示と信じて、荷物をまとめて離散しましたよ。指示したのは本当はわたしですが」 「そんなばかな」  ディルが怒りをこめた。 「きさまがアーベル様に似ているのは認めてもいいが、仲間がそうやすやすとだまされるはずがない。いったい何をした」  短剣の刃先がゆれたために、バードは抗議した。 「けがをさせないでください。わたしも負傷しているひまはないんです。女王陛下のご意志だと言ったでしょう。ヘルメス党の人間はだれ一人死んでいないし、傷ついてもいないじゃありませんか」  大きく息をついて、ルーンが双子の青年に言った。 「ディル、もう短剣を収めていいよ。こいつは正直にしゃべるつもりでいるようだ。けれども、危険がまったくないとも言えない。いろいろ聞き出す前に、手足を縛っておいたほうがいいね」  青年が刃を収めたと知ると、吟遊詩人は肩をすくめた。 「それで気がすむなら、お好きにどうぞ。たぶん、最後にはフィリエルが解いてくれるでしょうから」  ルーンはいきなり激した声を出した。 「ふざけるな。たとえ彼女が女王の血筋だって、おまえと同じ立場だと思ったら大まちがいだ」  彼がどなることはめったになく、バードよりフィリエルのほうが驚いた。  だが、その怒りはもっともだった。彼らを脅《おびや》かしつづけた異端審問官——その恐怖の存在が、二人の境遇《きょうぐう》を決定づけたと言ってもいいのだから。異端を狩るのがバードだったというなら、どんな理由のもとにあっても、フィリエルに共感できるはずがなかった。  水盤の前で、吟遊詩人は後ろ手に縛られて石だたみに座らされた。双子が彼の帽子をとりあげたため、まっすぐに伸びた灰色の髪と淡い色の瞳をもつ面長の顔が、さらにあらわになった。  バードは若くは見えないが、その顔には年月の刻むしわがほとんどない。ケインの笑顔を気持ちのよいものにする、目尻の細かいしわもない。眉間《み けん》も晴れやかで、瞳は無邪気といっていい色合いだった。 「しかし、アーベル様によく似ているのは事実だ。気色の悪いものですね」  ディルが顔をしかめて言った。 「まさか、親戚《しんせき》だと言ったりしないだろうな」  吟遊詩人は、愉快そうに彼を見た。 「言いませんよ。そう言ったら気持ちが傷つくのでしょう、あなたがたは」  フィリエルは、動揺しないよう自分に言い聞かせてから口を開いた。 「バード、あたしは覚えているのよ。あなたは以前、ケインにむかって『記憶操作の禁忌《きんき 》は女王家の者にしかかかっていない』と言っていたわね。ここで行われたことは、そういうことなの? あなたは人の記憶を操作できるの?」 「それは——ですね……」  吟遊詩人が間のびした声を出しているあいだに、ルーンが鋭く口をはさんだ。 「記憶に限ったものじゃないだろう。僧兵が竜を見たと思いこんでいるとしたら、それは幻覚《げんかく》だ。この女王の手下は、人にないものをあると思わせる、またはあるものをないと思わせる、そういう技が使えるにちがいない」 「まあ、ちがうと言ったらうそになりますね」  明るい調子でバードは認めた。 「たとえばこの場で、わたしがすべての種明かしをしてしまうとします。けれども、あなたがたは明日の朝には何一つ覚えていない。わたしがここにいたことすら覚えていない。そうすることができるんですよ」  フィリエルは、あとの二人がさっと顔色を変えたのを知り、あわてて言った。 「でも、あたしがいるからしないでしょう? 女王家の者は操作できないんだから」 「ええ、まあ、そんなところです」  ルーンは暗い目でバードを見つめた。 「異端審問官に出会うことは、研究者にとっての最期だと聞いている——そのまま闇に消されると。審問とは名ばかりで、問答無用で投獄《とうごく》されるか死刑になると。でも、本当のところはちがうんだな。本当は、問答無用で記憶を消されるんだ。研究でつちかった知識や新しい発見を、全部忘れさせるんだ。そうなんだろう」 「それが、更生《こうせい》と呼ばれるものかもしれませんよ」  吟遊詩人は心を痛める様子もなく言った。ルーンはこぶしを握りしめた。 「言うもんか。そんな権利、グラール女王にだってあっていいはずがない。人を——人の心をねじまげてしまうなんて」 「投獄や死刑のほうが恩情《おんじょう》があるというなら、それも考えてみますが。でも、日の下で生命をまっとうさせてやるほうが、慈悲《じひ》あるふるまいに思えませんか?」  バードは、すべてが等価《とうか 》だという口ぶりだった。 「人ごとなんだな、あんたには」 「ええ、まあ、そんなところです」  ディルがいらだった様子で口をはさんだ。 「こんなやつ、早いところ片づけて、われわれもアーベル様たちを追いましょう。ここにいるのは時間のむだです」 「いや、むだじゃない。ぼくはこの男に聞きたいんだ——なぜ女王が研究者を狩るのか」 「そりゃあ、アストレイアの教義に反するからでしょうよ」  ディルは言ったが、ルーンは首をふった。 「ヘルメス党の組織は、グラールの開国当時には生まれていたという。ぼくにはこれが、人の道をあやまること、人に害をなすことだとは、どうしても思えないんだ。人の心が望んで当たり前じゃないかとさえ思う。とくに、ブリギオン帝国の様子を目の当たりにしてからは、そう思わずにいることなどできないよ。女王が、それを知らないはずはないんだ。それなのに、なぜ、グラールは研究者を抑圧《よくあつ》してかかるんだ」 「ふうん……」  吟遊詩人は気のない声を出したが、やや興味深そうにルーンを見つめていた。 「あなたは自分の正当さを、アストレイアを相手取って主張するつもりなんですね、ルーン」  ルーンはきつい目でにらみ返した。 「おまえなんかに、気安く呼ばれるいわれはない」 「これは失礼。あなたのどこに、そのよりどころがあるのかと、ちょっと感心したものですから」 「質問に答えろ」  バードは少しのあいだ目をさまよわせてから、フィリエルを見た。いやな予感がしたとたん、異端審問官は言った。 「フィリエルが知っています」  あっけにとられた顔でルーンがふり向き、フィリエルは肝が冷えた。 「何を言うのよ、バード……」 「グラール女王がなぜあなたがたを狩るのか、フィリエルがよく知っていますよ」  吟遊詩人は断固としてくり返した。フィリエルは思わず口を開け閉めしたが、言葉が出てくるものではなかった。女王陛下から拝聴《はいちょう》した女王家の秘密は、けっして語ることのできないものなのだ。  水を打ったような静寂《せいじゃく》のなかで、彼らは見つめあった。やがて、ついにルーンが小声でつぶやいた。 「まさか……きみ……」  ルーンが何を言い出すかと、フィリエルは息をつめた。けれども、それは永久にわからないこととなった。彼は突然、はっとした表情で正門のほうを見やったのだ。 「声がした。ケインだ」 「庭の外ですね。行ってみましょう」  すぐさまディルが応じた。ぽかんとしているフィリエルに、ルーンは早口で言った。 「きみはここに残って、異端審問官が逃げないように見はっていてくれないか。ケインをつれて、すぐにもどる」  二人は大あわてで走り去っていった。フィリエルはまばたくばかりだった。彼女には、何の物音も聞こえなかったのだ。中庭の周囲にはあいかわらず静寂がただよっている。 (たとえケインが外で叫んだとしたって、ここまで聞こえるものかしら……?)  座っている吟遊詩人が、世間話の続きのように言った。 「——いえね、彼らにはちょっと聞かせられない話があったものですから。大丈夫、そのうちもどってきますよ。そのときには、最後の会話をきれいに忘れているはずです」  フィリエルは目を見開いてバードを見つめ、息を吸いこんだ。 「まさか……わざとあんなことを……」 「ええ、多少のゆさぶりをかけないと、この術はうまくかからないんです。とくにルーンは、かなり頑固そうですし」 「……ひどい……」  かっとなるあまり、フィリエルは吟遊詩人が縛《いまし》められていることも忘れて、そのほおをたたいていた。ぴしゃりと音が響いた後、彼のほおに手の跡が赤く浮かび、この人物にも血肉があることを証明していた。 「暴力はいけないと思うなあ……」  バードは小さな声でぼやいた。フィリエルは声をふるわせた。 「ひどい人ね。よくも言えたものだわ。ルーンが今のあれをどう取ったと思っているのよ」  答えなくていいものを、バードは律義に答えようとした。 「それはですね、推測するに、フィリエルは女王の思惑でヘルメス党にいるのではないかということでしょうね。あなたは何も言わないけれど、じつは、ヘルメス党を壊滅《かいめつ》させるためではないかとかね。あるいは——」 「やめてよ。もう一回ぶたれたいの?」 「やめます」  フィリエルの目から涙がこぼれ落ちるのを見て、バードはおとなしくなった。 「そんなに興奮しないでください。どちらにしろ、ルーンもあの短剣使いの青年も、今は覚えていませんから」 「それだって、ずいぶんひどいことだわ。あなた、自分でわかっていないの? 今後二度とルーンの意識をいじらないで。あたしがゆるさない」  燃える琥珀《こ はく》の瞳でフィリエルはにらみつけた。腹が立ってたまらないのは、彼の視線に息の止まる思いをしたことが、自分の記憶にだけ残ることだった。 「フィリエル、わたしは、彼らの思考力をこわしたわけではなく、最後の会話を消去しただけですよ。いつでもどこでも、ルーンはもう一度同じ結論にたどりつきます。忘れても、表層《ひょうそう》のすぐ下にあるものごとなのだから」  バードは平然と言い、フィリエルはどきりとした。ルーンがひそかに疑っているとするなら、ある意味では正しい疑いだった。フィリエルはすでに女王から、世界に科学者がいてはならないわけを聞いている。  バードは思案するように言葉を続けた。 「たとえばですね……ものごとはやりようだと思うんです。もちろん、ヘルメス党のしていることはこの国において禁忌ですから、異端審問官として彼らを見逃すわけにはいきません。ミルドレッド公国へ逃れようとしている人々のことですが、国境を越えれば、わたしの手が届かないと考えるのはまちがいだと、あなたにならわかりますね?」  フィリエルは眉をひそめた。 「なによ、それ。あたしを脅しているの? 敵に捕まって縛り上げられている人の言うこと?」 「言ったでしょう。わたしはわざとあなたがたを待っていたのだと。ここであなたがわたしを紹介してくれたおかげで、わたしとあなたの密接なつながりが、彼らにも明らかになったわけです」 「あなたって、本当に何度でもぶちたくなる人だわ」 「いやあ、待ってください。そうですね、脅していることは認めましょう。つまり、あなたを抜き差しならないところへ追いこんでいるわけです」  フィリエルは手がむずむずしたが、やっと抑えた。 「はっきり言いなさいよ。あなた、何をたくらんでいるの? それが女王陛下のご意志だというわけなの?」 「ええ、そうなんです。言ってみれば」  淡い色の瞳でフィリエルを見上げ、吟遊詩人は感情をこめずに言った。 「つまり、こういうことです。あなたはまだ、火の鳥の羽根を受け取っていない。女王候補は、最低一つの試験を受ける決まりがあるにもかかわらずです。とはいえ、ダイレクトに羽根をもってきても、あなたのことですから、望んで女王になる気はないと言いだすでしょう。それで、陛下はお考えになったわけです。あなたの努力次第に、ヘルメス党の存続を賭けようと」  フィリエルはしばらく黙っていた。アストレイアの御使《み つか》いと呼ばれるこの人物が、ようやくわかりかけてきた気分だった。 「……ヘルメス党をつぶそうと思えば、いとも簡単につぶせると言いたいのね。女王陛下は、たんにお目こぼしをしていただけなのだと。この隠れがのありかも、ここで何をしているかも、女王陛下は全部ご存じで、見逃すか見逃さないかに違いがあるだけなのだと」  それを可能にするのが、御使いとしてこの人物が所有している力なのだ。彼が、星女神の審判者だからなのだ。 「正直なところを言えば、ヘルメス党のたぐいの人々は、取り除いても取り除いても、雑草のように生えてきますから、根絶《こんぜつ》は最初からあきらめています。きりがなくてね」  吟遊詩人は明るく言った。 「ただ、現在ミルドレッド公国へ向かっている人々は、お気の毒ながら、すでにチェックがかかりました。それというのも、あなたがいたせいだと考えれば考えられますね」  両手を握りしめ、フィリエルはたずねた。 「あたしが、陛下の試験を拒否したら、バーンジョーンズ博士たちはどうなるの。事故にあうの?」 「いいえ。ただ、静かな余生を送るだけでしょう——過去をすっかり忘れて。ご老体たちにはそれも、なかなかよろしいのでは。アーベル氏が記憶をなくしてしまうのは、ちょっと残念ですけれど、それを言ってもはじまりませんし」 「ルーンも……なの?」 「あなたが課題放棄したり失敗したりしたあかつきには、当然ながらそうなりますね」 「わかったわよ」  フィリエルは息を吸いこんだ。だれかの手の上で踊るのはたくさんだという気持ちと、腹立ち混じりのあきらめとが半々だった。アデイルもレアンドラも、同じように容赦《ようしゃ》なく試されたのだ。女王の末裔《まつえい》に生まれついてしまった者の不運かもしれなかった。 「あたしに何をさせたいの。早く言ってちょうだい、その課題とやらを」  バードはくちびるを湿した。 「聞いたら、もう後もどりできませんよ。それでもかまいませんか?」 「とっくにできないわよ。あなたがそう追い込んだくせに、何を言ってるの」  フィリエルが憤慨すると、彼は、そうでしたと笑みを浮かべた。 「こうなったのも、あなたがあまりに特異な女王候補だからですよ。じつをいうと、あなたをめぐって女王とフィーリが対立しました。グラール国始まって以来の珍事《ちんじ 》です。そして、コンスタンスは、我《が》を通す決意を固めています」  バードの口調は淡々としていたが、その内容ははるかに常軌《じょうき》を逸していた。 「だから、あなたに課されたものごとは、わたしに課されたものごとでもあります。課題にとりくむ宣言をした以上、あなたはわたしとともにフィーリを抹殺《まっさつ》しなければなりません。三人の女王|擁立《ようりつ》を成立させたければ、現在のフィーリを取り除いて、このわたしが世界の判定を下すしかないんです」 「賢者《フィーリ》の抹殺——?」  驚くフィリエルは、かすれ声でたずねた。 「たしか、この前、フィーリとは世界の果ての壁のことだと言わなかった?」 「正確には、壁を操作する頭脳のことですね」  しかつめらしくバードはうなずいた。 「老朽化《ろうきゅうか》して動かなくなった回路もあるにはありますが、いまだにかなりのことができます。とくに西側の国では、たいていのことを掌握《しょうあく》しています」 「壁があたしたちを見ているの?」 「空から見ているのです」 「それじゃ、フィーリは空にいるの?」 「実体を言うなら、北極にたつ塔の中にいますね。この世界の人間には、到達不可能な地になっていますが」 「頭が変になりそう」  フィリエルは両手で頭をかかえ、髪に指をつっこんだ。そうしてしばらく考えてから、ようやくたずねた。 「そんな大魔法使いを相手にして、ただの女の子に何ができるというの。会うこともできないみたいだし、どこからも手がつけられないじゃないの」 「あなたは、ただの女の子じゃありませんよ。クィーン・アンの末裔です」  静かに言って、吟遊詩人はフィリエルを見つめた。 「女王の運命を定められた者には、つねに知りすぎた者の孤独と危険がつきまといます。ですが、あなたに言っておきたいのは、女王には騎士が不可欠で、騎士には女王を上回る危険がふりかかるのが常《つね》だということです。それをいとわない者だけが、女王になれるのです」  その意味するところがわからず、フィリエルは眉をひそめた。 「あたしは騎士なんていらない。レアンドラだって、そう公言しているわよ。危険があるなら自分でひきうけるし、自分だけでたくさん」 「そうはいかないんですよ。フィーリはあなたを女王候補と認めませんが、そうなると、ルーンは常人として知りすぎていることになるんですから」  吟遊詩人は疲れた表情になり、そうすると一番ケインに似た顔になった。 「この場所の消去が命じられたのも、フィーリの判定が下ったせいです。わたしは、彼の端末《たんまつ》にすぎませんから、その決定には逆らえないんです。もしもあなたたちが生きのびたいなら、この試みに協力する以外、他に手だてはありません」  夕暮れがせまってきて、石だたみの中庭に薄闇がただよいはじめた。金色の雲を映し出す水盤をながめて、フィリエルがぼんやりしていると、ルーンとディルが首をひねりながらもどってきた。 「ごめんよ、ケインを見つけられなかった。きみ一人にして悪かったよ。そいつはおとなしくしていたかい?」  フィリエルはうなずいた。おとなしくしていたとは言いがたかったが、座らされた場所から一歩も動いていないのはたしかだった。  ルーンは、とぼけた顔の異端審問官が縛られたままなのを見て、ほっとしたようだった。 「ケインたちを追いかけたいところだけど、もう日が暮れてしまったし。そいつを含めて、ぼくたちはとりあえず屋根の下に入ろう」  食事と寝床という、当面の問題にわれに返ったフィリエルは、食堂をのぞいたことを思い出した。 「そうだわ、だれもいなくなってしまったけれど、調理場には何か残っているはずよ。あたし、探してみる」 「もしも料理をするなら、わたしがやります」  ディルがやけにすばやく申し出た。  その夜の彼らは、広い食堂の片隅に一本だけローソクを点し、ディルのつくった野菜スープと貯蔵庫にあったパンとハムを、三人きりで黙々と食べた。まずい食事ではなかったが、野宿以上にわびしさがつのる気がしてならなかった。  ルーンは自分が吟遊詩人に食事を運ぶと言いはり、フィリエルもあえて反対しなかった。彼がバードに何を質問し、バードが何を答えるか、だいたい想像がついたからだ。 (知りすぎた者の孤独と危険……頭にくるほどそのとおりだわ……)  ディルも用心につきそったので、一人になったフィリエルは、思い悩みながら外へ出た。  ルーシファーはとっくに厩にもどっており、すでにフィリエルからごはんをもらっていた。けれども、晩ごはん後にもう一度訪ねることはめったになかったので、フィリエルを見るとずいぶんうれしそうだった。  暗がりでかすかに光る真珠色の角を、しきりにこすりつけて甘えるルーシファーに、フィリエルは小声で話しかけた。 「ルー、あたしね。また、旅をしなくてはならないらしいの。それでね、残念だけど、今度の旅にはおまえをつれていけそうにないの」  ユニコーンは意味を解さず、得意げに鼻を鳴らす。その首をだきしめて、フィリエルは顔を押しつけた。 「あたしは、ずっとずっと北へ行くの。生き物が住めないほど寒い場所へ。だから、おまえは南へ向かいなさいね。長い間離れていたら、あたしのことを忘れてしまうかもしれないけれど……」  それは、忘れっぽいユニコーンならおおいにありそうだった。しかし、フィリエルを忘れ去ったとしても、この雄ユニコーンは同族とファミリーをつくれない。それを思うと、心底せつなかった。 「ごめんね、そばにいてあげられなくて。あたしを忘れたら、おまえはルーンとも仲よくできるかしら……」  厩の柱の陰から、ひっそりと歩み出る人物がいた。暗がりにその気配を感じ、フィリエルが体を固くしたとき、彼は柔らかな口調で言った。 「ちょうどよかった、フィリエル。竪琴《たてごと》を届けてほしかったんです。彼にはこれを持っていってもらわないと」  フィリエルはふり返り、長身の人影を認めたが、驚いたわけではなかった。バードの口からすでに聞き知っていたのだ。  それでも顔を確かめるため、フィリエルは厩のランプに火を点した。黄色い明かりに吟遊詩人が、尖《とが》った帽子とつぎはぎの服をまとって浮かび上がった。  フィリエルはつくづくとながめたが、それはやっぱり吟遊詩人だった。ケインが扮装《ふんそう》してからかっているわけではなかった。 「……あなたが、ディルとダンのような人たちだったなんて、だれも知らないでしょうね」 「まあ、そうですね。厳密に言えばバードはただ一人です。今ある状態は、本来あってはならないことでして。更新《こうしん》はよくあることにしても、二カ所に存在するのは、いささかまずいんです」 「なんのことか、よくわかりません」  フィリエルはふくれっ面《つら》で言った。 「あちらで縛られているバードのほうが、上手におしゃべりできていたわ。説得力があったもの」 「やだなあ、あれもこれもわたしですよ。ただ、異端審問官のおしゃべりは、前例がたくさんあるので構築《こうちく》しやすいんです。まあ、場慣れしたということです」  歩み寄ってフィリエルに竪琴をわたすと、バードは続けた。 「けれども、現時点はすでに、わたしにもデータのない情況ですからね。フィーリの接続を切り離した後は、さらに判断のつかない事態がおこり得るわけです。前人未踏《ぜんじんみ とう》?……いや、ちょっと用法がちがうな……」  その口調はたよりなく、先が思いやられる気がして、フィリエルは彼を見つめた。 「ねえ、バード。どうしてもルーンと別れなくてはだめ? ルーンは、わけを話してもきっと驚いたりしないと思う。いっしょに行くことができると思うの……」 「だめなんです、フィリエル」  力のない口ぶりにもかかわらず、吟遊詩人の意見はゆるがなかった。 「成功率がコンマを切るような今回の試みに、わずかでも可能性を見込めるとしたら、それはルーンが南へ向かうことにかかっているんですから」  しばらく口をつぐんでから、フィリエルは言った。 「……でも、それは、とっても危険なのでしょう」 「フィーリの手にかかる危険を言うなら、全行程であなたの数倍はありますね。フィーリの注意が彼にそらされているところに、われわれの活路が見出せるのですから」 「あたしはそんな、ルーンを囮《おとり》にするようなことは——」  縛られたバードとすでにした議論を、フィリエルがむし返したため、バードは手をかかげてさえぎった。 「何度言っても同じことですよ。すでにルーンはあなたの一の騎士なのです。どんなに否定してかかろうとも、それが彼の選んだ道なのですから」 「選んでなんかいないわよ。彼、あたしより研究のほうが大事なんだから」  こだわるフィリエルに耳をかさず、バードは淡々と言った。 「いや、厳密に言えば、あなたがまだ女王候補であるように、彼もまだ騎士候補のうちですね。わたしがフィーリのもとにたどり着くまで、自分の才覚で生きのびることが、彼の騎士としての条件です。彼の場合、そうして初めて生存権を得るということでしょうね」 「あたし、そんなのゆるさない」 「クィーン・アンの末裔のお嬢さん。騎士はもともと女王より数多くいるものです。二の騎士、三の騎士と……なぜかと問われれば自明でしょう。その本質として死亡率がたいへん高いからですよ。騎士は補充《ほじゅう》がききますが、女王の血は貴重です」  フィリエルは思わず床を踏み鳴らした。 「あなたの、そういう人でなしのところ、だいっきらいよ。だいっきらい。虫ずがはしるわ」  不思議なことに、フィリエルがこれほど嫌悪にふるえているというのに、ルーシファーはこの男に関心を示さなかった。ケインとまちがえているわけでもなかろうに、気のない様子で角をよそに向けている。 「うーん。ふだんはけっこう努力しているつもりなんですがね……」  バードはこめかみをかき、のんびりと言った。 「今回は、わたしが本物の人間だったら、計画そのものが成り立たないんです。ですから、あなたには悪いけれど、わたしが人でなしであることに我慢《が まん》してもらわないと」  竪琴をかかえて、とぼとぼと中庭にもどってきたフィリエルは、月明かりを映す水盤の近くに、ルーンが立っているのを見つけた。彼女が来たことに気づくと、ルーンはほっとした様子を見せた。 「あっ、フィリエル。どこへ行ってしまったのかと思った……」  フィリエルは一瞬、そのままルーンの腕に飛び込みたい衝動にかられた。だが、手には竪琴があったため、思うようにはいかなかった。 「これ……厩の近くで見つけたの。バードのものよ」  ルーンはすぐに竪琴にひきつけられ、フィリエルの様子には気づかずに終わった。 「なるほど、隠していたんだな。竪琴をもっていたら、どうしたってケインに見えないものな」  楽器を月明かりにかざし見たルーンは、金と宝石の象眼《ぞうがん》に目をみはった。 「腹が立つくらい、豪華なつくりだね」 「バードの尋問《じんもん》は、もう終わったの?」  フィリエルは、つとめてさりげなくたずねた。 「うん」  ルーンは少し間をおいてから、ためらいがちな口調で言いだした。 「フィリエル、これを聞いたらきみは怒るかもしれないけれど……でも、決心したことなんだ。夜が明けたら、きみはディルといっしょに急いで脱出ルートをたどってほしい。ケインたちがどこまで行ったかわからないけれど、ミルドレッドでは落ちあうことができるだろう。ぼくは……あの吟遊詩人をつれて、もう一度南の壁へ行ってみる。確かめずにはいられないんだ。世界の果ての壁には今、まちがいなく異変が起きている」 (……ルーンは必ずそう言いだすと、縛られたバードが見越していた。壁を案内することを匂わせれば、必ずルーンはのってくると……どうしてそんなに思惑どおりなのよ)  絶望的な気持ちになりながら、フィリエルは言った。 「あたしのことは、つれて行けないのね」 「危険なんだよ、フィリエル」 「今いるこの場所だって、最初は危険だったわ。でも、こうしてなんとかなっているじゃないの」 「だけど、きみ、約束を守らないじゃないか」  声を低くしてルーンは文句を言った。 「あんなふうに飛び出すから、もう信用なんかできないよ。きみは合図があるまで庭の外にいるはずだったんだぞ」  意味がないとわかっているのに、フィリエルは言わずにいられなかった。 「あたしがこんな人間だから、もう愛想がつきたと言いたいんでしょう」 「ほら、すぐ怒る……」  ため息をついてルーンはつぶやいた。フィリエルも、いきりたってもしかたないと思いなおした。 「……ちがうわ、愛想がつきてもいいのよ。もしかしたら、そのほうがいいのかもしれない」  ルーンから顔をそむけて、フィリエルは力なく続けた。 「あなたにああしろこうしろって、本当は言えた義理ではないのよ。あなたは……考えたことがある? もしもあなたが、あの日に天文台へつれて来られなかったら、あなたには別の人生があったかもしれないってことを」 「どういう意味?」 「あなたには、女王家にかかわらない生き方もあったかもしれないのよ。あたしはそういうわけにいかないけれど、ルーンは違う。ルーンは他人だもの」  これを口に出してしまうと、全身が痛むような気がしたが、ここまで言ったからには、言わずにすませるわけにいかなかった。 「……世界の果ての壁を求めたのは、あたしの父だし、父にそんな研究をさせたのは、あたしの母だわ。でも、ルーンは博士じゃないのよ。他の生き方だってできるのよ。あなたは、いまだにディー博士になろうとするけれど、それしか望んでいないみたいだけど、ぜんぜん別の場所で生まれたぜんぜん別の人間だって、考えたことはないの?」  ルーンはしばらく答えなかった。それから、つぶやくように言った。 「うん、ぼくはディー博士じゃない。どうしたって博士と同じになれないってことは、よくわかっているよ」 「だったら、壁を見に行かないで。あたしといっしょにいてよ」 (……こんなことを言っても、どうにもならない。バードはあたしと同じくらい、ルーンのことも追い込んでいるはずだもの……)  頭ではわかっていても、フィリエルには、別れを回避《かいひ 》する可能性を求めずにいることはできなかった。  ルーンは、やがて重い口調で言った。 「今、ここにディー博士がいてくれたら……博士が賢明《けんめい》な助言をくれたらと、どんなにか思うよ。きみがいまだに求めているものは、ぼくの力量ではどうしても実現できないんだ」  フィリエルは思わず、きっとなってふり向いた。 「あなた、ちっともわかっていないわよ」 「そうじゃないよ。きみは、自分の求めているものに気づかないんだ。博士がいない今、きみの身内になりたいけれど、そうできたらと願うけれど、ぼくはやっぱり他人だよ……きみの言っているとおり」 「そうよね、あたしたち、どこをとっても身内じゃないわ」 「うん」 (……ルーンのとんちき。どうしてこんなに無愛想なのよ。これを限りの別れになるかもしれないってときに)  フィリエルの目に涙があふれてきた。仕組まれた別れを前にして、ルーンを危険に追いやる自分が泣くのは卑怯《ひきょう》だと思ったが——暗がりが彼女の感情を解き放ってしまった。 「だったら、あたしのあげた博士のメガネを返してよ」 「フィリエル……」  彼女の涙に気づいたルーンは、二人のあいだをつめた。 「きみにどう言われようとも、ぼくがこれまで育った日々や、ぼくがディー博士から学んだものごとを、ゼロに返すわけにはいかないんだよ」 (ええ、そうね。バードがあなたの記憶を消しにかからないかぎりは……)  ルーンの腕に抱きよせられるのを感じながら、フィリエルは考えた。そして、ルーンの服に顔を押し当て、すすり泣きをしずめる努力をした。すると、他にどうしようもないことに、とうとうあきらめがわいてきた。  しばらくたってから、じっと抱きしめていたルーンは真剣にたずねた。 「……もう、怒っていない?」  こういうときのまぬけな質問が、あまりにルーンらしかった。フィリエルは顔を伏せたまま苦笑し、そしてささやいた。 「ええ、もう、怒っていないわ。だから、本当にメガネをあたしにちょうだい。そして、それが本当に大事なものなら、あなたは世界の果てから取り返しに来て」 「本気?」 「ええ、この上なく本気よ。その証拠に、あなたには代わりにあたしの女王|試金石《し きんせき》をわたすわ」  顔を上げたフィリエルを、とまどったルーンがうかがうようにのぞきこんだ。 「フィリエル、それでは、賭けが大きすぎないか? エディリーンのかたみを、ぼくにわたしてしまうなんて」 「いいのよ。あなたがもどってこなかったら、あたしは女王になんてならなくていいのだから」 (……女王の血は貴重だって、バードは言っていた。それならフィーリだって、女王試金石を持つ者には手加減をするかもしれないもの)  それは当てのない望みだったが、何もしないよりはましに思えた。首の後ろの留め金をはずすと、フィリエルは、金鎖に下がった青い石をルーンにさしだした。 「だから、交換しましょう。それが、あたしたちがもう一度会うための誓いになるから」  ルーンは少しの間ためらったが、うなずいて内ポケットに手を入れた。 「わかったよ……」  しかしルーンは、メガネをわたして女王試金石を受け取りながらも、別のことに気をとられていた。この期《ご》に及んで何に上の空なのかと思いきや、フィリエルの顔を見つめてためすように言った。 「だけど、フィリエル、誓うなら、もっと別の拘束《こうそく》力をもつ約束もあったと思うけど」 「そうだったわね」  フィリエルは笑いだした。そして、笑うことができることに深く感謝しながら、ようやくルーンとキスを交わした。 [#改ページ]    第二章 もう一つの神話      一  夜明けに起き出したルーンは、バーンジョーンズ博士あての手紙を食堂のテーブルに残し、フィリエルとディルには別れも告げず、吟遊詩人につれられて旅立っていった。  もっともフィリエルは、こちらもこっそり起き出して、木立の陰から去っていく彼らを見送っていた。吟遊詩人は、ヘルメス党の黒服に今は自分の竪琴を背負い、相変わらず悠々《ゆうゆう》と歩いていく。並ぶルーンはもう少しあたりに気をくばっていたが、足どりには迷いがなかった。 (もう少し、名ごり惜しそうにしたって、ばちは当たらないのに……)  つらい気持ちで見送るフィリエルには、少々不満だった。だが、ルーンとはそういう人間だった。その決意の固さが見てとれるようだった。  隣に立つもう一人の吟遊詩人を見やり、フィリエルは言った。 「本当にあざやかなお手並みね。完全にルーンをのせたのね。でも、あたしが、喜んでこうしているなどとは思わないで」 「思っていませんよ。どうしてわざわざ言うんです?」 「言いたいからよ。あたしが怒っていること、覚えていてちょうだい」  琥珀色の瞳をいからせて、フィリエルは言葉を続けた。 「今は、他にどうしようもないから従うけれど、あたしたちをこんな形で試そうとしたこと、一生忘れないわ。あたしは、世界を救いたいなどとは思っていないのよ。ルーンを失うくらいなら、世界が吹き飛んだってかまわないのよ」  くすんだ衣の吟遊詩人は、少し考えて言った。 「世界を壊すことは、確かに、あなたにとっては簡単なことですね」 「そうよ。何もしなければそれでいいのよ。それでも、受けて立ってしまうのは、あたしやルーンを否定してかかるフィーリが、偉そうで気にくわないからだわ。あなたにも腹が立つけれど、それ以上に」 「はあ……」  フィリエルは両手を握りしめた。怒り続けていないと、すべてをだいなしにしてルーンを追いかけてしまいそうだった。 「だから、おばあさまのお膳立《ぜんだ 》てに従うのよ。あたしは、自分とルーンの居場所をこの世界につくってみせる。そのために必要なら、三人目の女王にだってなってみせるわ」  バードは肩をすくめた。 「わたしが必要としているのも、その結論なんですが、何が問題なのでしょうね」 「あたしがぶったのが、あちらのバードだということがつくづく残念ね」 「あれもわたしですったら。ぶたれた記憶はちゃんとあります……」  ルーンの姿が外郭《がいかく》の洞穴に消えてしまうと、ディルがルーシファーにたづなをつけ、フィリエルたちのところへ引いてきた。  短剣使いの青年が、ルーンが行ってしまったことに平然としているのは、バードがまた記憶操作を行ったせいだった。ルーンとともに出かけたのはケイン・アーベルだとばかり思っているのだ。 「われわれも、時間をむだにせずに出発しましょう。バーンジョーンズ博士宛てのルーンの手紙は、わたしがあずかりましたよ」  ディルはフィリエルの顔を見て、白い歯を見せることすらした。 「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても、アーベル様が彼についています。それから、バーンジョーンズ博士たちもきっとご無事ですよ。打ち明けると、わたしとダンは、離れていても何となくお互いの様子がわかるんです。ダンに何ごともないのだから、一行は順調に脱出しているのでしょう」  フィリエルは胸が痛むのをおぼえたが、術をかけなければ、ディルは闘おうとするにちがいないのだから、しかたがないと自分に言いきかせた。 「ディル……あのね、じつはあたしもミルドレッドへ行けないの。もうしわけないけれど、ルーシファーをあなたにお願いできるかしら」 「え?」  ディルはけげんな表情になったが、その驚きもまた、数秒のうちにやわらいだ。 「……ああ、うっかりしていました。宮廷からお使いが来たのでしたっけね。わたしが都までお送りしなくて、本当に大丈夫ですか」  バードがさりげなく口をはさんだ。 「どうぞご心配なく。この先には、彼女のために遣《つか》わされた特別の護衛官が待機していますので」  昨日とはうって変わったまなざしでバードを見て、ディルは言った。 「その人の言うことなら、まちがいないでしょうね。アーベル様のお身内のようだし」  ルーシファーと別れることには、ルーンとの別れとはまたちがったつらさがあった。ユニコーンは約束ができない。何カ月も先まで同じことを覚えていられない。無心に澄んだその瞳の前では、ごまかしを言うこともまたむなしかった。 「さよなら、あたしのルー坊……」  ルーシファーは、フィリエルが乗らないのを意外に思った様子だが、深くは気にとめなかった。ディルがたづなを引くことにも疑問をもたず、時ならぬおやつをくれたことに喜んで、けっこう上機嫌で引かれていった。 「……さあ、これで本当に一人になったわ」  ルーシファーとディルも行ってしまうと、フィリエルはふり切るように言った。愛するなにものからも引き離されてしまい、自分がむきだしになったように感じられた。この、ひりひりするようなむきだしの身一つで、寒風の吹きすさぶ場所へ行かねばならないのだ。 「まだ、わたしがいるではありませんか」  帽子を被りなおしてバードが言った。 「あなたは人でなしじゃないの」 「あ、すみません」  それでも、フィリエルは息を吸いこみ、気力をふるいたたせた。 「じゃ、とにかく行きましょうよ——偉大なフィーリとやらを抹殺しに。時間をむだにせず、さっさと済ませてしまいましょう。北極まで行くのって、どのくらいかかるの?」  吟遊詩人は、感心したような目で見た。 「あなたは、本当に変わっていないですね。その思いきりのよさ、エルロイから帰ったときを思い出しますよ」 「ほめてるの、けなしているの?」 「ほめてます」  楽器を持たないので、手もちぶさたな手をひらひらさせて、吟遊詩人は言った。 「この協力をたのめるのは、三人の候補のなかでもあなたしかいなかったことはたしかです。あなたの精神は柔《やわ》らかで強靱《きょうじん》だ。不完全な瞬間移動をしてさえ、めげることなく回復しましたからね。あれは、できない人がほとんどですよ」 「できないほうがよかったわ」 「はあ、それもそうですね」  気の抜けるあいづちを打ってから、彼は言った。 「じつは、われわれは、このまま北極へ直行するわけにはいかないんです。その前にちょっとやることが——じつをいうと、わたしはちょっと死ななくてはなりません」 「ちょっと——何ですって?」  さすがにフィリエルも大声をあげた。 「じつをいうと、わたしはすでに死んでいたはずなんです」  もうしわけなさそうに吟遊詩人は言った。フィリエルは思わず地面にへたりこんでしまった。 「なんなのよ、それ。今のが冗談でないなら、あたしにはもうついていけないわ」 「つまりですね。バードが更新《こうしん》されたから、ルーンと旅する吟遊詩人が存在しているわけでして。バードのパーツは消耗品としてできています。傷んだり、壊れたり、死んだりして当たり前なんです。わかりますか?」  けんめいに理解しようとつとめながら、フィリエルは力なく口にした。 「あたしたちと同じに、けがや病気をするし、ひどくなれば死ぬということ?」 「はい、そうです」 「でも、年はとらないんでしょう?」  前にバードから聞いた話を思い出して、フィリエルは指摘した。 「言っていたじゃない。先代の、ミランダ女王の戴冠《たいかん》式からずっと王宮にいるって。それだと八十年以上はたっているはずで、あなたのその姿はおかしいもの」 「いえ、年数がたてば、それなりに老化していくと思いますよ。ただ、地上をあちこち旅してまわる身は、とかく消耗が激しくて、老いるひまなく更新してしまうんです」  フィリエルは額に手を押し当てた。 「ちょっと待って。その『更新』というのがわからないのよ。まさか——死んでよみがえるという意味じゃないでしょうね」 「その意味です」  まじめくさってバードはうなずいた。フィリエルに至っては、もはや驚く元気もなかった。 「あなた……いったい何者?」 「ですから、審判者です。有機体《ゆうき たい》のボディをもつほうが高級だと思いませんか? なんといっても、環境にやさしいですし。こうして生物として歩き、飲食でエネルギーを保ちながら地上を見回ることは、旧式なフィーリにはできないまねですよ」  フィリエルはおそるおそる口にした。 「……本当はあなた、生物じゃないということ?」 「わたしの本質は頭脳です。フィーリと同じものです。このパーツを使い捨てても、わたしの記憶と知識が次の体に引き継がれていくわけです」  ほとんど理解はできないものの、あるがままの事実として、フィリエルは少しずつそのことをのみこむことができた。考えこむ口調で言った。 「ヘルメス党が考えることと同じね。大切なのは探求の記憶と知識で、それを次の世代の人々に引き継いでいくことが、彼らの使命なのよ。一人一人の個人が大事なわけではなく」  バードはほほえんだ。 「まあ、わたしの生みの親も、ヘルメス党に似た人々だと言えなくもないです。だから、わたしも、ヘルメス党が憎くて仕事をしているわけではないんですよ」  フィリエルはつんとして彼を見た。 「あなたね、自分が自分であるために記憶が大事だと知っていながら、他人の記憶は平気で奪《うば》うなんて最低よ。深く反省するべきよ」 「はあ、たしかに」  頭をかいて、バードは認めた。 「調子が狂いますが、ともあれ話をもどすと、フィーリの端末として正しいバードは、ルーンと旅するバードなんです。データのごまかしで、わたしがだぶって二カ所にいるわけですが、長くはごまかせません。せいぜいが二十四時間です」 「二十四時間と言われても……」  吟遊詩人は穏やかな目でフィリエルを見つめた。 「それに、この体はまだフィーリにつながる体です。彼の干渉《かんしょう》を受けずに、独自の行動をとれるようになるためには、わたしは死んで一からやりなおさなければなりません」  フィリエルはうめいた。 「あたし、とってもいやな予感がするんですけれど。あなた、あたしに殺してほしいなどと言い出さないでしょうね」 「あ、すみません。それ、言おうとしました」 「冗談じゃないわよ」 「もちろん、きれいに死にますから。血なんて流しませんよ。自慢じゃありませんが、死のうと思えば眠るように死ぬことができるんです。それに、わたしは、通常の人間よりずっと死後の分解が速いですよ。地球の環境にやさしいんです」  フィリエルは思いっきり後悔しながら、この人物につきあって、頭が変にならないと思うほうがまちがいだったと考えた。 「……ルーンといっしょに行ってしまえばよかった。あなたときたら、あたしに自分の葬式をさせるために引き止めたんじゃないの」 「そう言わないでください。あなたにしか頼めないんですよ」  無邪気そうにバードは言った。 「ほんの少し、土をかけてほしいだけです。司祭《し さい》の祈りなんて必要ないですから。じつをいうと、あなたにしてほしいことは、葬式よりもその後の更新に関してなんです」  フィリエルは赤みがかった髪をふりたてた。 「あなたの『じつは』とか『じつをいうと』とかが、吐きそうなくらいきらいになってきたわ」 「そう言わないでください」  フィリエルは吟遊詩人が見守るなか、自分を落ち着かせるために、しばらくあたりを行ったり来たりした。五回めにもどってきたとき、ようやく肝《きも》をすえてたずねた。 「どうしろというの?」 「ええとですね」  バードは、いくらか謙虚《けんきょ》になって話し出した。 「通常でしたら、わたしの更新したボディは、培養《ばいよう》が完了した状態で届きます。じつをいうと……あ、すみません……わたしの体は、いつもは月の施設で培養しているんです。けれども、今回の場合、フィーリに秘密で培養しなくてはなりませんから、地上でなんとかするしかないんです」 「培養……おかしな言葉ね」  フィリエルはつぶやいた。 「そうですか? 言い換えを思いつくかな……育成《いくせい》のほうがいいかな」  首をひねるバードに、フィリエルはたずねた。 「あなたは、よみがえるときにどのくらい時間をかけるの?」  吟遊詩人は、よくぞ聞いてくれたというようにうなずいた。 「そこなんですよ。培養器のなかでは一週間くらいで済みますが、条件の整わない地上のこととなると、一カ月はみつもっておく必要があるかもしれません。わたしであっても、最初は無垢《むく》な赤ん坊として生まれるわけでして——」 「あ——赤ん坊?」  フィリエルが驚愕《きょうがく》すると、バードは少し傷ついた声を出した。 「そんなに変ですか? わたしだって、ヒト遺伝子《い でんし 》をもとに展開する身ですよ」 「だって、だって、赤ん坊って……何にもできない、あの赤ん坊でしょう?」 「あ、でも、成長は速いですよ。ヒトよりずっと」 「でも、赤ん坊なんでしょう?」  うろたえ続けるフィリエルに、バードは言いきかせた。 「だから、先ほどから言っているではありませんか。あなたにしか頼めないと。あなたは女性で、いつかは自分の子どもを産むようにつくられているわけですから、短期間赤ん坊のめんどうをみることくらい、わけないでしょう。今回のフィーリ攻略の要《かなめ》の一つが、あなたがたから見れば奇異《きい》に映るわたしに動じず、無力な時期をのりきらせ、彼に対抗できるまで育ててくれる、希有《けう》な女性の存在なのです」 (まったく、どうしてこんなことを、あたしがするはめになるんだろう……)  木立の間にある、浅いくぼみに横たわる吟遊詩人を見おろしながら、フィリエルはつくづくと考えた。  何度も自慢していたとおり、バードは寝入ったようにしか見えなかった。胸の上にかるく手を組み、気持ちよく目を閉じているかのようだ。  けれども、その脈はもう打っていないし、薄暗がりでなければ、ろうのような肌の白さが見てとれるはずだった。そして、たった一人で向きあってみれば、息をしない相手というものが、どれほど冷たく異相《い そう》をおびるか、骨身《ほねみ 》にしみてわかるものだった。 (ここまで独りぼっちにさせられるとは、さすがに思ってもみなかったな……)  もってきたシーツで彼の体と顔を覆うと、フィリエルは、必要ないと言われたにもかかわらず、二、三の祈祷書《き とうしょ》の文句を唱えずにはいられなかった。唱え終わると、いぜんにまして静寂がつのったような気がしたが、フィリエルはふり切って立ち上がり、スコップに手をのばした。  死者にかける土の音は、どうにも気のめいるものだった。けれども、けんめいに体を動かすほうが、座りこんでいるよりはましだった。土が小さく盛り上がった塚になるころには、非力なフィリエルは汗だくになっていた。 (こんなことをしていて、本当に世界の存続につながるのかしら……とてもそうは思えないけれど)  腕で額をぬぐって、薄紫の空を見上げると、シンベリンへもどって二日目の星がまたたきはじめていた。南へ向かったルーンは、今はどのあたりでこの空を見上げていることだろう……  死者のためには祈りの言葉も出てきたが、ルーンを想《おも》っても祈ることはできなかった。自分たちは、星女神の恩寵《おんちょう》の外にあって、きびしく試される身なのだと、ますます思い知らされるだけだった。 (それでも、あたしはがんばるから、どうかルーンも無事でいて……)  不思議なことに、祈りのかわりに思い浮かんだのは、小さいころルーンに読みきかせてやった青い本の物語だった。金の鳥を探しにやらされた、三人の王子の物語……末っ子王子に幸福をもたらした、森のキツネがでてくる話だ。  末っ子王子に、金の鳥と金の馬と金の城のお姫様を手に入れさせ、兄たちの謀略《ぼうりゃく》からも救ってやった森のキツネは、そのほうびに自分を殺してくれと頼むのだ。王子が泣く泣くキツネを殺すと、死んだキツネは若者となってよみがえり、金の城のお姫様の兄だと告げるのだった。 (……バードはまるで、お話のなかのキツネみたい。本当によみがえって、フィーリを倒しに行くのかしら。青い本の物語より、さらに奇抜《き ばつ》な物語じゃないかしら)  新しい土の塚を見やって、フィリエルは大きなため息をついた。      二  フィリエルは髪を指ですき、乾きはじめた髪の毛が焦《こ》げ茶色になるのを見て、がっかりしたうめき声をもらした。 「やっぱりだめか……今度こそ黒髪になったと思ったのに」  髪を染めるのは久しぶりだったが、ヘルメス党の基地にある染料は、どうやら改良されていなかった。フィリエルの髪は、どうしてもカラスの濡《ぬ》れ羽《ば》色に染まらないのだ。  これからしばらく、たった一人で行動しなければならないことを考えると、変装は必要だった。生前《せいぜん》のバードが語った言葉が浮かんできた。 『……フィーリは空からサーチすることを忘れないでください。開けた場所には気をつけて。今回のごまかしを、彼もそれなりに怪しんでいるはずですから』 (……空の見えない場所だけを通る旅なんて、できやしないわよ……) 『それから、聖職者の組織には、フィーリの手先となる者が紛《まぎ》れ込んでいそうです。見えない部分のデータをとるために、人物を利用することがあるんですよ。気をつけてください』 (……あたしはすでに、メニエール猊下の生涯の敵なんだもの。言われなくても聖職者には近づかないわよ)  フィリエルは顔をしかめて、しばらくの間鏡に映る自分の姿に見入っていたが、いやいやながら腰を上げ、吟遊詩人を埋めた木立へ出向いた。  バードが死んでから四日がたち、今は五日目の朝だった。百時間後と彼が言った、約束の時がきているのだ。とはいえ、まったく気が進まなかった。死体を埋めた場所など、だれが喜んで掘り返したいと思うだろうか。  あれから一度も近づかない、不吉な木立に分け入ったフィリエルは、自分の作った塚が見る影もないほど平たくなっているのを見つけた。けれども、手を出す勇気をふりしぼるには、もうしばらく時間がかかるものだった。 (こんなことをしなければならないなんて、本当に、他のだれかが選ばれてほしかった……)  分解していると請《う》けあったにしても、骨くらい出てきそうな気がしてならなかった。フィリエルは、こわごわと土の表面をひっかくばかりでいたが、やがては目をつぶり、思いきって土の中にスコップの刃を突き立てた。  フィリエルの被せたシーツが、泥まみれになって出てきた。けれども、その下には何もない。腐臭《ふしゅう》にも警戒したフィリエルだったが、湿った黒土の匂いしかしないようだった。 『……分解しないものは一つだけ。指先ほどの大きさの透明なガラス玉に見えるはずです。それがわたしの核《かく》ですから、これだけは回収してください。核さえあれば、別の場所へ移っても再生できます』  土をあちこちかきまわしても、何も出てこないようだったので、フィリエルはあせった。しまいには、スコップを放り出して手で直接探ってみた。ようやくガラス玉が見つかったときには、そこが死体のありかだったことを忘れはてていた。 「あったあった」  うれしさに思わず叫んで、フィリエルは表面の泥をこすり、宙にかざしてみた。ガラス玉は純粋に無色ではなく、透明ながらかすかに灰青をおびている。まるでバードの瞳のようだった。  もっとよく透かし見ようと、玉をさらに光のもとへ持っていったフィリエルは、いきなりぞくりと背筋に冷気が走り、その自分に驚いた。 (見ている……)  その感覚は、背後に視線を感じたときのもの、しかも、害意をもって見られているときのものだった。あわてて木陰に走り込み、フィリエルは激しく動悸《どうき 》を打つ胸を押さえた。 (空から見ている……今のがフィーリ……?)  吟遊詩人の声が胸によみがえった。 『フィーリの瞳は真昼の星です。見えないけれどもそこにある。ですから、夜があなたの味方です。月の光はさらに味方で、わたしを導く| 源 《みなもと》となるものです』  フィリエルはこわごわと木の葉の間から空を見上げたが、不穏《ふ おん》なものは何一つ見当たらなかった。青空に、のどかな白い雲が浮かぶばかり。鳥影一つ見えない。  もしかしたら、自分の神経がおかしくなっているのかもしれなかった。森に囲まれた無人の施設に、もう五日もとどまっているのだ。  ぐずぐずしてはいられない——ガラス玉を握りしめたフィリエルは、くちびるを引きむすんだ。一刻も早くここを立ちのかなくてはならない。  ときどき腹が立つほど、わけのわからないことを言うバードだったが、今思えば説明があるだけましだった。ガラス玉は何一つ語ってくれない。バードに帰ってきてほしければ、さらなる説明が聞きたければ、フィリエルが自分の才覚で、ガラス玉をもとのバードに還元《かんげん》しなくてはならないのだった。  グラール国では、未婚《み こん》の娘は同伴者もなしに旅などするものではないとされている。しかし、このきゅうくつな慣習にも抜け道があって、若い娘が必要にせまられて一人旅をするときは、男装をすればよかった。  これはなにも、定められているわけではなかったが、宮廷婦人の侍女たちが、よく男装してお使いをはたしたため、自然と生まれてきた通念だった。  国内の街道沿いでは、単独または二人で男装して旅する女性を見かけたら、手を出さないのが無難とされている。万一やんごとない方の使いである場合には、主家の報復が恐ろしいうえに、本人も腕の立つことが多かったのだ。  フィリエルも、こうした暗黙《あんもく》の了解を隠れみのにして街道を南下し、メイアンジュリーの都までたどりついた。北へ向かうことも考えなくはなかったが、どうしても目立ちそうな気がしたのだ。都のにぎわいにいったん紛《まぎ》れてしまえば、空から監視があったとしても、まくことができると思えた。  夏至《げし》の前後は、近郊から都へ流れる人々が多かった。夏至祭をふくめたさまざまな催《もよお》しごとがあり、市《いち》が立ち、他国からの巡礼者もこの時節に一番多く訪れたのだ。不注意な旅人をねらう、強盗やスリのたぐいも同時に横行していたが、フィリエルも今ではけっこう旅慣れていて、危ない行動は避けることができた。  とはいえ、一人が心細くないはずがなかった。つれが一人もいない旅は、昼も夜も気を抜くひまがない。災難にあわずに旅したとはいえ、そのぶん身の細る思いをしたことはたしかだった。  港町まで来たフィリエルは、まず一番に、以前カグウェルから引き上げたときに世話になった、隠れヘルメス党の宿屋『海宝亭』を探した。  こうした宿屋はすぐに消えてしまうものだが、幸いなことに、同じ通りに同じ看板がかかっていた。入り口を掃除していた亭主も、フィリエルが見知っていた顔だった。 「おや、おまえさんはいつかの。ケインがつれてきた、子ロバをつれ歩く娘さんじゃないかね」  亭主もすぐに、フィリエルを見分けた。赤ら顔をして頭の| 頂 《いただき》がすでに薄い、ずんぐりした男だったが、粗野《そや》なだみ声をしているわりに、小さな茶色の目は知的で鋭敏《えいびん》そうだった。 「なにかたよりが届いています?」  フィリエルが問うと、亭主は彼女を店の奥までひっぱっていって、声をひそめた。 「あんた、どうして今ごろここにいるんだね。シンベリンが落とされたと聞いたよ。研究部本体はとっくにミルドレッドへ移ったそうじゃないか」 「ええ、それは、あたしもその場にいましたから知っています。でも、その後の消息を知らなくて。みんなは無事だったんでしょうか」 「いや、その後のことは、こちらにもまだ届いておらんよ。だが、悪い知らせも来てはいない」  ため息をついて、亭主は顔をなでた。 「情報部のトップが交替してから、ケインもこのところ、とんとお見限りだな。うちの宿は閑古鳥《かんこ どり》が鳴いとるよ。あんたは知らせをもってきたのかい?」  フィリエルはかぶりをふった。 「いいえ、でも、情報部のかたの助力がいただきたくて。これは、ヘルメス党の存続にもかかわることなんです」  亭主は、あらためて見なおすようにフィリエルを見つめた。 「ずいぶん、思いつめた顔をしているじゃないか。何があったんだね。とりあえず、なにか一杯飲んだらどうだね。腹は空いているかね?」  彼はフィリエルの肩を押して食堂へつれていき、リンゴ酒とサーモンをはさんだ黒パンのサンドイッチをふるまってくれた。それらをお腹におさめると、フィリエルは久しぶりに気持ちが楽になった。  吟遊詩人は金持ちで、彼女に路銀《ろ ぎん》をたっぷり遺《のこ》してくれたが、そのせいでかえって気が安まらなかった。裕福《ゆうふく》と見てねらわれないよう、旅の宿ではろくな食事をとらなかったのだ。  フィリエルがあらかた食べ終えるのを見届けると、亭主はおかわりのリンゴ酒と、自分には麦酒《ビ ー ル》のジョッキをもってきて、テーブルの向かいに座った。 「……コンスタンス陛下が王宮に復帰されたのはめでたいことだが、わしらにとって、都は前よりきな臭いところになったよ。大聖堂の猊下が世間を掌握《しょうあく》しようとつとめた矢先のことだったからな。ゆり返しに不穏なものがある」 「あの……」  亭主の顔を見上げてから、フィリエルは思いきって言った。 「あなたも情報部なら、あたしのことをご存じなのでしょう?」  麦酒をあおり、亭主は考えこむようにくちびるの泡をなめた。 「娘さん。あんたはたぶん、この都じゅうで一番、大聖堂の異端審問官につかまってはならない人物だよ。メニエール猊下が女王候補を排斥《はいせき》する名分《めいぶん》を、半ば公然と探していることは、今じゃ周知の事実だからな。どうしてわざわざこんなところへ、一人で来たのかね」 「あたしが女王候補だからです」  相手の目をしばらく見つめてから、フィリエルは落ち着いた声を出そうとつとめた。 「あなたも、あたしを女王の手先と疑っていらっしゃる一人かもしれません。でも、あたしはヘルメス党から立つ女王候補として、女王にならなくてはなりません。ヘルメス党が国内で生きのびる最終手段として、今ではそれしか方法がないんです。ですから、猊下に好き勝手をされるわけにはいきません」  亭主は茶色の目を細めた。 「……あんたは心底そう思うかもしれないが、そうなることは、ヘルメス党の組織が女王家の枷《かせ》をかけられることと同じだと思わないかね。われわれが何より尊ぶべき自由の精神が、枠を制限されたものに成り変わってしまう」 「枷ではありません。賢明さです」  フィリエルは背筋を伸ばして言った。 「戦争をしないための、人を殺さないための賢明さです。本当に賢い人間は、そのためにいるはずのものでしょう? それを、自由の制限と呼ぶには当たらないと思います。あたし自身は、まだ行いも考えることも、賢明にはほど遠いけれど、努力する方向だけは知っているつもりです」  宿屋の亭主はなぜかここで、大きな声で笑い出した。フィリエルが顔を赤らめると、ジョッキをはなして手をふり、悪気がないことを示そうとした。 「いやいや、失礼。怒らんでくれ、あんたを笑ったんじゃないよ」  フィリエルはふくれずにいられなかった。 「あなたのこと、話せるかただと思ったのに……」 「悪かったよ。都に長く暮らすと、人間がすれてきてしまうものでね」  目をこすり、亭主はまだのどの奥で笑っていた。 「ここしばらく、これほどまっとうな意見を、これほど真正面から語られたことはなかったよ。あんた、いい娘さんだね」 「いいです、もう。この程度で笑われたのでは、このうえ常識をはずれたお願いなど、できやしませんもの」 「お願い?」 「いいです。聞かなかったことにしてください」  フィリエルが席を立とうとすると、亭主はあわてて笑いやめた。 「こらこら、言ってみないことには始まらないじゃないか。ハイラグリオンのおひざもとで、何をやらかそうというんだね」 「信用してくれない人には、話せないわ。そうでなくても正気を疑われそうなことなんですもの」  フィリエルの恨めしげな顔を見て、亭主はまたおかしそうになった。 「機嫌をなおして、リンゴ酒を飲んでごらん。さっきのとはちがう産地のだよ。さあさあ、わしが笑ったのは、個人的にあんたが気に入ったからだ。あんたの澄んだ目の奥は、極上のビターにそっくりだね。それだけでも肩入れできるかもしれんよ」  しぶしぶながら、フィリエルはリンゴ酒をすすってみた。たしかに前のとは味が異なっていた。 「あ、今度のほうが、トーラスで飲んだリンゴ酒の味がするわ」 「そう、それはカーレイル産地のリンゴ酒だ。してみると、あんたは本物なんだね」 「試したの?」 「いやいや、どこまで探っても、今のぶっそうな世の中、この人物を信用すると言い切れんよ。信用は、出会いと気合いの勝負だな」  テーブルの上に手を組んで、宿屋の亭主は言った。 「わしはあんたの気合いを買うことにする。あんたのほうは、どうしたらわしを信用するんだね?」  少し口をつぐんでから、フィリエルは言ってみた。 「あたしの常識はずれな願いを聞いても、全部を詮索《せんさく》せずにいてくれることかしら。あたしがすべてを話せなくても、それをのみこんでくれること」  亭主は身をのりだした。 「いったい、どれほど常識はずれなことなんだね」  フィリエルは迷いながら言った。 「あたしは……海辺へ行かなくてはならないんです。岩と砂浜があって潮のみちるところ。メイアンジュリー近郊に、そういう場所があるかしら」 「海水浴がしたいなら、都の近くで有名なのはミルアーデン地方のリゾートだがね」 「人がたくさんいてはだめなの。見られてはまずいんです。数日かかるから、変だと思われるし」 「見られてはまずい、どんなことをする気だね」  フィリエルはうつむき、落ちてきた焦げ茶色の髪のふさをいじった。 「……保証できないけれど……たぶん、赤ん坊が生まれてくるのよ……」  亭主はテーブルにのりだしたまま固まり、目だけをぱちくりさせた。 「……あたし一人で、どうこうできるかわからないし。だって、赤ん坊にはお乳も必要でしょう? あたしがやるわけにいかないし……」  ようやく息を吸って、亭主が口をはさんだ。 「おまえさん、まったくそうは見えないが、実は妊婦《にんぷ 》だったのかね」 「あたしのどこが、妊婦なんですか」  フィリエルは憤慨して言い返した。 「とんでもないわ。妊婦どころか、結婚もしていないし、婚約だって、あやうくしかけたけれどしなかったくらいよ。赤ん坊を産むはずがないでしょう」  宿屋の亭主はさとしきかす口調になった。 「娘さん、だれだって、結婚しなくても赤ん坊を産むことはできるんだよ。べつに星女神の前で神聖な誓いを立てなくても、することをすれば自然に生まれてくるもんだ」 「あら、ばかにしないでください。そのくらいのこと、あたしだって知っています。トーラス女学校できちんと避妊も習いました」  怒っているフィリエルを、彼はあきれてながめた。 「しかし、赤ん坊が生まれると、今——」 「ええ、そうよ。生まれてこなくちゃならなくなったのよ」 「それは、つまり、あんたが恋人とだね、やっぱりすることをしたから——」 「してませんってば」 「で、だれの子どもなんだね」  おもしろくなさそうに亭主はたずねた。 「そいつもヘルメス党の人間かね。| 情 状 酌 量 《じょうじょうしゃくりょう》の余地があるのかもしれんが……少々がっかりしたと言わねばならないよ」  いすを蹴って立ち上がり、フィリエルはこぶしをふって力説した。 「あたしが産むんじゃありませんったら。人の話をよく聞いてよ。女神の楽園にかけて誓うけれど、あたしはまだ乙女の身です。恋人はいるけれど、キスしかしたことがありません」 「本当かね。それじゃ、だれが産むんだね」 「だから、産むのではなくて、生まれてくるのよ」  亭主は口をつぐんだ。それから、ジョッキを飲み干し、ため息まじりに言った。 「……わしは、ヘルメス党がもつ禁断の知識として、処女懐胎《しょじょかいたい》の伝説を聞いたことがあるよ。大昔にはあった、散逸《さんいつ》した書物に書かれていたという。しかし、それははるかな神話であって、現実におこることなど承服《しょうふく》できないものごとだ」  フィリエルは、力なく両手をテーブルについた。 「だから、常識はずれだとはじめから言っているのに。承服できないとおっしゃるなら、しかたありません。当てはないけれども、他を探してみなくては……」  亭主は鋭い目でフィリエルを見て、口調をきびしくした。 「待ちなさい、娘さん。あんたはその話を、都のあちこちでふれて回るつもりかね。だれが聞いても、気のふれた娘のたわごとにしか聞こえないぞ」  ふいにフィリエルは忍耐力を失って叫んだ。 「いいのよ、気が狂ったと思われても。それでも、バードは生まれてこなくてはならないんだもの。大事な人が危険な目にあっているというのに、あたしは、彼が生まれてこないことには、ここから先へ一歩も進めないんです」  息をはずませ、かすかに涙ぐみながら立つ娘を、宿屋の亭主は思わず口をつぐんで見つめた。激昂《げっこう》した表情に純粋さがあふれ、これほど美しい娘は見たことがないと思わせた。  その体つきはしなやかに細く、身重《み おも》の徴候《ちょうこう》はかけらもない。旅のほこりを被ってもなお、匂い立つような清らかさを周囲に放っている。世間を知る亭主の目から見ても、彼女が子を産むとは考えられなかった。  しばらくして、彼はゆっくり口を開いた。 「わかったよ。わしが海岸へつれていってやろう」  フィリエルがびっくりして見つめ返すと、亭主は穏やかに続けた。 「そんな、追いつめられた小動物みたいな目をするものじゃないよ。あんたには似合わない。たぶん、あんたは、もっとよく寝て休息をとることが必要なんだろう。うちの宿はがらがらだから、ここで休んでいくといい。よく眠ったら、明日には宿屋を閉めて、いっしょにミルアーデン地方へ出かけよう」 「いいんですか……?」  フィリエルは、まばたきながらたずねた。  彼はにやっとして言った。 「わしの名は、トルーマン・ヨナタンだ。娘さんは、どんなふうに呼んだらいいかね」 「……フィリエル・ディーよ」  安堵のあまり、そのまま倒れてしまいそうな気分になりながら、フィリエルはささやいた。  翌日。朝もおそくなってからフィリエルが起き出してみると、宿屋の亭主は、本当に店を閉める手はずを整えていた。食堂のいすやテーブルは隅に片づけられ、埃《ほこり》よけの覆いをかけてある。  彼女の顔を見たトルーマンは言った。 「よしよし、最後のベーコンを二人してたいらげようじゃないか。卵はいくつ食べるかね」 「あ、それなら二つ……」 「ゆで卵、落とし卵、目玉焼き、オムレツ、どれにする?」 「じゃ、落とし卵……」  トルーマンは、フィリエルがあつあつの落とし卵と、ベーコンとキノコとトマトを食べ終えるまでは、何も言わなかった。それから、おもむろに口を開いた。 「さてと。一晩ぐっすり眠っても、あんたの計画は変わらないかね。今でも行きたいのはミルアーデンの海岸かね?」  フィリエルは、いぶかしげに見返した。 「あたしの気が変わるなんて、どうして思うんです?」 「いや、赤ん坊を産むのにいい場所は、他にもいろいろあるかと思ってね」 「海へ行かなければならないんです。生まれるために、どうしても海の水が必要だから」  フィリエルがきっぱり答えると、亭主は肩をすくめた。 「それならいい。じつはわしも、海辺の保養地はなかなかいいと思っているよ。潮風は健康にいい。波の音の聞こえる場所で静かに暮らせば、ばかげた妄想《もうそう》などなくなってしまうとも」  いくらかむっとして、フィリエルはいすの背にもたれた。 「あたしのこと、頭がおかしいと思っていらっしゃるのね」 「おまえさんは、やはりどう見ても妊婦じゃないからね。何かの思いこみが高じて、赤ん坊が生まれてくると信じているようだが」  フィリエルは鋭く言葉を返そうとしてあきらめ、ため息をついた。 「……それなら、あなたは、気のふれた女につきあって、宿屋をたたんでまでついてきてくださるというわけ?」 「なに、これは、わし自身の気分転換だよ。『海宝亭』も閉めるしおどきではあったんだ。転地でもして休養をとりたいと、近ごろしきりに考えていた。あんたはべつに恩にきる必要はないから、安心していいよ」  トルーマンはにこやかに言い、フィリエルも反発する気が失せて、力なく笑った。 「この際、どう思われていてもいいわ。海辺へ行くことがかなうなら、気の毒がられようとなんだろうと」      三  トルーマンは荷物をまとめると、貸し馬車屋へ行って長期契約の二輪馬車を借りてきた。車輪が少々いたんでいるものの、まだまだ頑丈な古い馬車に乗りこみ、鎧戸《よろいど》をおろした宿屋を後にする。たづなをとる亭主の隣に座ったフィリエルは、だんだん行楽気分になってきた。  気のはる旅をした後だけに、馬車に座って景色を楽しみながら目的地に向かうことは、夢のようにすばらしく感じられた。フィリエルがはしゃいで笑うようになったので、トルーマンも満足そうだった。 「そうしていると、まったくふつうの活発な娘さんだね」 「当たり前です。あたしはふつうだもの」 「今朝、店の外に出たときは、まだおかしな様子をしていたじゃないかね。頭上にびくびくしているような」 「あれは、真昼の星が怖かったからよ。見られているかもしれないもの」  フィリエルは笑いながら言った。 「でも、今は馬車の幌《ほろ》をさしかけてあるから大丈夫。こんなに安心して道を行けるのは久しぶりだわ。本当にうれしいったら」  トルーマンは黙りこんで頭をふったが、景色に夢中のフィリエルは気にとめなかった。馬車は、港町を南に抜け、シーリーンの河口をわたる美しい橋にさしかかっている。ミルアーデンはメイアンジュリーの都の南部、アッシャートン州に属する地域なのだった。 「あたし、行楽って、あんまりしたことがなくって」  少女ははずむ声音で語った。 「南の海は、北とは色がちがいますね。ものすごく南まで行ったことはあるけれど、海は見てこなかったんです。どうして海の景色って、ながめるだけでこんなに心がわくわくするのかしら」  横顔をぬすみ見ながら、トルーマンは言った。 「さあなあ。だだっ広いからじゃないかね」  風になぶられる髪を押さえて、フィリエルは思いついたように言った。 「バードは、おかしなことを言ったんですよ。あたしたちはみな、もともとは海から生まれ出てきたのですって。だから、いまだに海の水を体に必要とするのですって。海を見るとなぜか慕《した》わしいのは、それだからなのかしら……」  亭主は慎重にたずねた。 「バードというのが、おまえさんの恋人なんだね?」 「ちがいます」  フィリエルはふりむかず、そのままもの思わしげに言った。 「これから生まれてくるのがバードです。あたしの大事な人はべつにいます」 「昨夜はわしも考えたんだが……おまえさんの恋人は、赤ん坊が生まれようというあんたを、どうして一人で放っておくのかね。おまえさんがここにいることを、そいつは知らないのかね?」 「ええ」  小さな声でフィリエルは答えた。 「……知らなくて当たり前なんです。別れたときは、あたしもこういうことになるなんて、ちっとも知らなかったくらいですから」 「まあ、キスしかしたことがないんじゃ、そういうこともあるだろうがな」  馬のたづなを繰って、すれちがう馬車のために道の端に寄ってから、亭主は言った。 「——そうでないなら、おまえさんはもっと、そいつに責任をとらせるべきだぞ。どうして別れてしまったんだね」 「彼には関係ないことなんです」 「それじゃ、しかし、恋人とも呼べんだろうよ」 (……そうなんだろうか)  フィリエルはびっくりし、初めて不安になってたずねた。 「キスしかしないと……恋人とは言わないでしょうか」  まじめな顔で問われて、宿屋の亭主はめんくらったが、かろうじて答えた。 「そんな決まりはどこにもないが、あんたがそれ以上に及ばなかったとあくまで主張するなら、それには、及ばないだけのわけやら事情があったんだろうよ。わしならそう考えるね」  目のさめるような白い砂浜ののびるミルアーデン中心部には、アッシャートン侯の別荘も建っており、貴族たちの優雅な保養地としてにぎわっている。だが、それも、海竜のいない奥まった入り江に限られており、それほどのぜいたくを言わなければ、周辺にひなびた村が見つかった。  地元でいろいろ聞き込んだうえで、トルーマンとフィリエルがやってきたのは、入り江をはずれたサマースという海岸だった。小さな村に宿屋は一軒もないが、海辺に無人の小屋があり、それを借りることができたのだ。 「どうしても、一人になりたいんだね?」  トルーマンは念をおしてたずねた。馬車を放り出すわけにもいかず、彼は隣村のエリドンまで引き返して宿をとらなくてはならなかった。  フィリエルはうなずいた。 「ええ。だれが見たって、おかしくなったとしか思えないのはわかっています。でも、あたしには時間が必要なんです。もしもまだ、あたしを見限らずにいてくださるなら、四日すぎてから迎えにきてください」  額にしわを寄せて、トルーマンは言った。 「食べるものは、村人にわけてもらえるだろうが……わしはむしろ、おまえさんが海に消えてしまわないかと心配だよ」 「そんなことは絶対ないわ。約束します」 「星女神の楽園にかけて、誓えるかね?」 「誓えるわ」  トルーマンが馬車で去っていくと、フィリエルの周囲では、海鳴りがひときわ大きくなったように感じられた。外海に面したこのあたりの砂浜は小さく、すぐに途切れてごつごつした黒い岩にとってかわる。岩にあたる波の音も高く聞こえた。  フィリエルの借りた小屋は、寝台と小型のテーブルが置けるきりの狭さだった。よほど偏屈《へんくつ》な人間が建てたらしく、見える範囲に人家がない。目の前のみすぼらしい草地は、すぐに砂浜に下って波の打ち寄せるみぎわとなった。 (最適な場所と、言えるでしょうね……)  満足はしたものの、気がめいるのは否《いな》めなかった。水平線に沈む夕陽の眺めは、さすがにすばらしかったが、暮れればあたりはさらにわびしくなった。 (必要なのは、月の光、砂、岩、海水……満ち潮には隠れ、引き潮には現れる場所……)  浜を何度も歩き回り、やがては月明かりのなかで、ここぞという場所を定めたフィリエルは、ふところに抱えていたガラス玉を慎重な手つきで取り出した。ひじの深さに砂を掘った穴に落とし、再びそれを埋める。  この埋め方は、深すぎても浅すぎてもいけないと注意されていた。あまりに深いと息ができないし、あまりに浅いと、ガラス玉が波にさらわれてしまう。よせる波の具合、岩と砂の質も成長に影響するそうで、万一手ぬかりがあったらバードは再生しなかった。  埋めてしまうと急に自信がなくなり、フィリエルは、とうとう三回も掘り返しては埋めることをくり返してしまった。ついにはあきらめたものの、まだまだ不確かだった。確実なことなど、バードにさえわからなかったのだ。 (信じるしかないわ……)  ふところを探ったとき、いっしょに黒ぶちメガネにさわったフィリエルは、あらためてふれながら、しばらく立ちつくした。自分たちの行く末が、この一挙一動にかかっているにしても、あまりに奇妙なものごとだと思えてならなかった。  それから数日は、待つよりほかにすることはなかった。フィリエルは、なるべく昼間に小屋で眠るようにし、日が沈んでから浜へ出て、夜明けまでひざをかかえて過ごすことになった。  トルーマンにたのまれた村人が、朝と晩に食べ物の籠を届けてくれたが、会って言葉を交わすことはなかった。フィリエルもだが、相手のほうも、なるべく会うことを避けている様子だった。  一度、小屋の戸口で、籠を運んできた若い娘とばったり出くわしたことがあったが、彼女はものも言わずに逃げていった。どうやら、よくないうわさを立てられていそうだった。 (無理もない……あたしだって、逆の立場だったら、頭のおかしい人間か、後ろ暗いことをしたかどちらかだと思うでしょうよ)  腹を立てるよりはがっくりして、フィリエルは放り出すように置かれた籠を取り上げた。なかなか、無人の森よりも孤独が身にしみるものだった。  海鳴りだけを耳にして、夜半の浜辺に座っていると、考えごとをする時間がありすぎた。たえず心にかかるのはルーンの安否であり、不安がつのり、よくないことばかりが思い浮かんだ。 (……あたしには、ルーンを危険に追いやる権利など、どこにもなかったはずなのに……)  さまざまな疑問にさいなまれ、フィリエルは手にしたメガネを見つめて考えた。  天文台からディー博士が消え去って以来、ルーンは綱わたりのような危うい生き方をしてきた。異端者として狩られる危険と、異端の凶事にのみこまれる危険と、どちらにころんでも無事ではすまされないなかで、かろうじて生きのびてきたのだ。  彼を見出したヘルメス党のケイン・アーベルが、ルーンの護衛として付き添ったのは、けっして意味のないことではなかった。ルーンはそれをうっとうしがったが、彼の身はそれほど危ういことを、ケインは正しく判断していた。 (それというのも、あたしがいたせいだ。あたしのそばにいなければ、ルーンはこれほど危険に遭遇《そうぐう》しなくてすんだのだ。今回なんて、それ以外のなにものでもない……いっしょにいようとするだけで、あたしは、ルーンに犠牲を要求してしまうんだわ……)  アデイルの話が本当だとすれば、ルーンは遠い東に生まれたのだ。百通りもの異なる生き方があったのに、たまたまあの日に天文台へつれてこられてしまったのだ。フィリエルは、今までそう考えなかった自分を認めた。いつからか、ルーンは博士の弟子として生まれ出たような錯覚におちいっていたのだ。 (あたしたちには、絆《きずな》も何もないとは思いたくない。それでも、今までみたいに、ルーンはあたしのものだと決めつけてかかることはできない……)  フィリエルは、だからなのだろうかと考えた——ルーンがエディリーンの墓前で、結婚を約束する言葉を口にしなかったのは、だからなのだろうか。  思いあがっていただけかもしれないと、フィリエルはくちびるをかんだ。ルーンがためらうのは当然だというのに。フィリエルは、彼が属そうとしているヘルメス党に危険を呼びこむだけの存在だ。彼であっても、口に出さない表面下では、女王家の目的を疑っているのだ。 (でも、今は何でもいい。ルーンと結婚できなくても、あたしのそばから離れていっても、生きてさえいてくれるなら……)  黒ぶちメガネのふちをなぞり、フィリエルは祈るような気持ちで考えた。  今のフィリエルには、それ以上を願うのはぜいたくだとすら思えるのだった。彼が危険な道中にあるときに、遠く離れ、場ちがいな浜辺でうずくまることしかできない自分である以上……  海は夜半に満潮を迎え、それから少しずつ引き始めていた。考え疲れたフィリエルは、寄せては返す波の単調さに、いつしか岩にもたれてうつらうつらしていた。夏であっても夜中の浜は肌寒く、体に大きなショールを巻きつけたあげくだった。  こうして居眠りをして、もう何度、赤ん坊が無事に誕生した夢をみたかわからなかった。ついにやったと胸をおどらせたとたん、はっと目がさめて、独りぼっちの浜辺を見出すのだ。  だから、赤ん坊を腕に抱きあげたフィリエルは、夢をみているとうすうす承知していた。第一、自分の居場所が浜でなく、豪華なしとねの上だった。そして、見おろす小さな赤ん坊は少しもバードに似ていない。薄い頭髪は黒っぽく、目の色も濃かった。 (あら、この子、ルーンだわ……)  それから、自分がこの子を産んだことを思い出した。産後の体は衰弱《すいじゃく》していて、腹部に鈍痛《どんつう》を感じる。 「王妃様……」  付き添う女が泣いていた。さらには、緊迫した表情の黒ひげの男が立っていた。 「妃殿下《ひ でんか 》、ここはもう保《も》ちませぬ。ブリギオン兵が前庭を埋めつくしております」  表の不穏な喧噪《けんそう》が、彼女の耳にも届いた。門は破られ、敵兵と彼女たちの身を隔《へだ》てるのは、すでに壁一枚だった。 「ここを動くこと、この身にはかないませぬ」  赤ん坊を一度ぎゅっと抱きしめてから、彼女は言った。 「この子だけ逃がして。この世に生を受けたばかりの、罪のないこの子が生きていれば、あとは何とでもなります」 「しかしながら、妃殿下——」  指示に慣れた、りんとした声音で彼女は言った。 「わたくしの首をおとりなさい。それをブリギオンへ引きわたせば、そなたたちの助命がかなうでしょう。でも、この子は逃がして……たとえ名をなくそうとも、どんなに厳しい人生が待ちうけていようとも、母の願いは生きのびることなのです」 「王妃様……」  付き添う女が、ひときわ大きく泣き伏した。  はっとして岩から頭をおこしたフィリエルは、自分が実際に泣いていたことにあきれた。目をこすって、げんなりして考える。 (やあね、だんだん夢がリアルになる……そのうち、夢とうつつの区別がつかなくなるのではないかしら……)  夢の中の緊迫感《きんぱくかん》が、まだあたりに漂っているような気がしたが、そこは月の光にひっそりと照らされた砂浜だった。遅い月が西の空にかかり、暗い海にたつ波をかすかに光らせているが、もう明け方に近い時刻だ。  フィリエルはぼんやり立ち上がり、ショールをひきよせて、みぎわまで行ってみた。そして、信じられないものを見た。  波打ち際のぬれた砂の上に、何か黒いものがうごめいている。打ち寄せられた海草にからまって、最初はとんでもなく奇怪なものに見えたが、そのうちに、本体はあおむけの赤ん坊だと気がついた。  ぼうぜんと立ちつくすあいだにも、赤ん坊と海草は、寄せては返す波に押されて移動している。そのうち、ひときわ大きな波が来て、そのままさらっていかれそうになったため、フィリエルは大あわてで飛んでいった。  両手でつかまえると、ぬれた赤ん坊は温かかった。まったく泣こうとせず、機嫌よく手足をばたばたさせている。フィリエルは、半信半疑のまま抱きあげたが、柔らかい小さな体は、水を入れた袋のように持ち重りがした。 「夢じゃないのね……」  まるでとがめるように、フィリエルはつぶやいた。 「あなた、本当にバード?」  赤ん坊は、アブブとくちびるを鳴らした。  そういうわけで、四日目の朝、馬車をころがして迎えにきたトルーマンは、小屋の戸を開けるなり、取っ手から手を放すこともできずに硬直したのだった。  一目で見てとれる室内には、寝台の端にこしかけたフィリエルと寝台中央のショール、そのショールを巣にして、鳥のひなのように白い毛のはえた頭が見えた。元気よく手足を突き出す、ピンクの肌の赤ん坊だった。 「おはよう、トルーマンさん。早かったのね」  ぎこちなくほほえんで、フィリエルが言った。 「牛乳が手に入らないかしら。この子、あたしのぶんを全部飲んでもまだ欲しそうなの」 「おまえさん、いったい……」  ようやく口がきけるようになった宿屋の亭主は、しどろもどろにたずねた。 「産んだのでないとすれば、どこから拾ってきたのかね……」 「拾ったというのは、正しいかもしれない。海から取り上げたのだから」  フィリエルは首をかしげてから、神妙に言った。 「何がおこったのか、本当のところは自信がないの。この子はもしかしたら、海のかなたから潮にのって流れついたのかもしれない。そうであっても、少しもおかしくない見つけ方だったわ。不思議ね、そのときあたし、生物はみな海から生まれてきたのだということが、やすやすと信じられるような気がしたのよ」  トルーマンは、あまり彼女の話を聞いていなかった。驚嘆の目で赤ん坊を見守り、もっとよく見ようと寝台わきの床にひざまずいたので、妙にうやうやしい態度に見えた。  赤ん坊は片手の指をしきりにしゃぶっていたが、薄青い目で、彼に興味をもったように見返した。その目はまるで、きちんと焦点があっているように見えた。 「……拾ったというのはたしかかね……この赤ん坊は、生まれたてには見えない。もう一、二カ月はたっているように見える」  フィリエルはうなずいた。 「ふつうの人よりずっと速く成長するって聞いているの。だから、こんなものなんでしょう」  息を吐きだしてトルーマンは言った。 「海から上がったにしろ、ちがうにしろ、これは奇跡の赤ん坊だ。これほど人気のない場所で、どうしてあんたに見つかることがある。この年になって、まさか奇跡に立ち会う日がこようとは、わしも今日まで考えられんかったよ」  フィリエルは少し肩をすくめた。 「これでもう、あたしを気のふれた娘だと思わないでくださるかしら」  トルーマンは真剣な顔でフィリエルを見やった。 「おまえさんは、処女懐胎の伝説を詳しく知っているかね?」 「いいえ、その話は読んだことがないの。あたしの母は教えてくれなかったようだわ」 「女王国の最も厳重な禁忌《きんき 》にふれる書物だったと、わしは聞いているよ」  他に聞く者のない浜辺の小屋だというのに、トルーマンは声をひそめた。 「処女によってこの世に生まれた赤ん坊は、天の父なる神の子で、長じては救世主《きゅうせいしゅ》となるとされている。しかも、伝説の赤子は男の子だ。おまえさんはたしか、都にいるときから赤ん坊を『彼』と言っていたじゃないか」 「ええ……そうだけど」 「そして、この子も男の子だ。こんなことってあるだろうか。まったく常識を超えている」  フィリエルはどう言っていいかわからなかったが、もしも、バードがフィーリにとってかわって世界の守り主になるならば、彼を救世主と呼んでもいいのかもしれないと考えた。 「そうね。伝説のとおりかもしれない」 「おお、なんと尊い……」  トルーマンは赤ん坊を拝みかねない様子だったが、赤ん坊のほうは、小さいこぶしを口からはなし、むずかり始めた。当面の問題に立ちかえって、フィリエルは言った。 「ああ、ほらほら。お乳の代わりになるもの、何かもっていません?」 「リンゴ酒と麦酒なら、馬車にいくらか積んであるんだがね」  フィリエルは顔をしかめた。 「アルコールはいくらなんでも、まずいんじゃないかしら。それとも、救世主はお酒で育つと書いてありました?」 「いや、ない」  宿屋の亭主は首をすくめた。 「わしは来るとき、あんたのことしか考えなかったからな。まさか、現実に赤ん坊がここにいようとは。どれ、近いところで分けてもらってこよう」  彼が馬車を出そうと、戸口を出たときだった。浜の向こうから、二人の男が馬を駆ってやってくるのが見えた。紺の同じ型の上着といい帽子といい、腰にさした飾り気のない剣といい、領主家の私兵といったいでたちの男たちだ。  トルーマンも年季のはいったヘルメス党員であり、危険をかぎつけるのはすばやかった。急いで小屋のドアを開け、中の少女に告げた。 「フィリエル、出てくるんじゃないぞ。少しばかり、まずいことになるかもしれん」  どきりとしたフィリエルは、あわてて赤ん坊をショールごと胸に抱きよせた。      四  あっというまにひづめの音が近づき、止まった。金具の鳴る音と、砂地を踏みしめる重い足音が続き、小屋の薄い板壁ごしに、聞き慣れない男の声が響いた。 「われわれは、侯の命を受けてミルアーデン区の治安をあずかる、シズル長官配下の巡査官である。不審な者がサマースにいるとの通報を受けた。身元をあらためさせてもらおう」  軍隊好きなチェバイアットの門下にふさわしい、堅苦しい口調の男に、宿屋の亭主がへらへらと答えるのが聞こえる。 「いやですねえ、わしらはただの観光客でございますよ。へえ、メイアンジュリーの下町で宿屋をやっておりまして。こんな人気のない場所に、娘を一人にするのがおかしいって? じつを申せば、うちの娘は芸術家でしてね。創作のインスピレーションがわくと、本人たっての希望でここに家を借りたんですよ」  出まかせで煙にまこうとする、トルーマンの作り話は、こんな情況でなければ、フィリエルも笑ってしまいそうな内容だった。 「へえ、そうです。詩作でございます。だんな様がたは、覆面《ふくめん》作家のエヴァンジェリンをご存じで? 実を申せば、うちの娘のペンネームなんですよ。人気のバラッドなども世にだしているんですがね……」 「とにかく、その娘の顔を見せてもらう。村人の話では、濃い茶色の髪をしているそうではないか。焦げ茶の髪をして赤みのある茶色の目をした十七、八の娘に関しては、さるやんごとないかたの依頼で、厳重な手配をしているのだ」  フィリエルは息をのんだ。考えてみれば、メニエール猊下と一度だけ対峙《たいじ 》したとき、フィリエルは髪を染めていた。「あかがね色の髪の乙女」と歌われた自前の色ではなく、今の焦げ茶色だったのだ。 (あたしったらばか……どうしよう) 「ええ、そりゃかまいませんとも。どうぞどうぞ」  トルーマンは平然と言った。 「そうそう、とりあえずは身分証明書をお見せしましょう。馬車にありますから……だんな様がた、麦酒はお好きですか。うまい瓶《びん》づめを積んでいるんですよ。遠くまで足を運んだよしみで、一本いかがです?」  フィリエルはふるえながら赤ん坊を抱きしめ、耳をすませたが、兵士たちは麦酒をことわらない様子だった。銘柄などをたずねている。 「ピルグリムですよ。ここの麦酒は、瓶を振れば振るほどうまいという、たいへん変わった品で……」  栓がシュポンと抜ける音に続いて、兵士たちのわめき声が聞こえた。さらには殴り合いの音、壁にたたきつけられる音がして小屋が大きく揺れた。  フィリエルが飛び上がって寝台を離れると、その前で戸が開き、トルーマンが汗をかいた顔をのぞかせた。 「急いでずらかろう、フィリエル、早く」  表に走り出ると、二人の兵士があっけなく地面にころがり、顔を押さえてじたばたしているのが見えた。 「あの人たち、いったい……」 「トウガラシ入り炭酸水が目と鼻に入ったんだよ。もうしばらくは馬に乗れまい」  フィリエルを馬車に押し上げたトルーマンは、間髪を入れずに馬の鞭《むち》を鳴らし、わめき声をあげる兵士たちをその場に置き去りにして、海岸を後にした。  人里離れていたことが幸いして、追っ手はすぐにつかないようだった。彼らの馬車は呼び止められることなく、やがては隣村のエリドンも後方に過ぎ、トルーマンはようやく額の汗をぬぐった。 「やれやれ、立ち回りは久しぶりだったよ……のどがからからだ。フィリエル、後ろの木箱から一本取ってくれないかね」 「これ、トウガラシ水じゃないの?」 「さっきのは護身用の特製品だ。あとのはまともな飲み物だよ」  フィリエルは、危ういところを助けてくれた亭主が、麦酒をラッパ飲みすることを何とも思わなかったが、それを見た赤ん坊が泣き出すのには困った。 「ああ、どうしよう。お腹が空いているのはわかるけれど、お乳をもらうわけにいかなくなってしまったわ」 「そうだな。その子にゃ気の毒だが、アッシャートン州を出るまでは、馬車を止めるのは危険すぎる」  赤ん坊は泣き続けるあまりに、顔が赤紫になってきた。フィリエルは何度も抱きなおしたり、ゆすってみたりしたが、いっこうに泣きやまない。顔をしかめ、涙をこぼして、瓶のほうへしきりに手を伸ばすのを見て、とうとうフィリエルは決心した。 「こうなったら、リンゴ酒をあげてみるわ。もとは果物なんだし、この子になら飲めるのかもしれないから」  瓶の口に布を詰め、おっかなびっくりあてがってみる。赤ん坊はたちまち泣きやみ、夢中で吸いついて、馬車の中はようやく静かになった。  トルーマンは馬を御しながら横目で見て、驚いた口調で言った。 「うまそうに飲むじゃないか……いける口だな……」 「酔っぱらわないといいけれど……」  赤ん坊が酔っぱらったかどうかは、だれにもわからなかった。ともあれ、瓶が空になるまで飲み続け、大きなおくびをもらすと、気持ちよさそうに寝入ったのだった。  宿には詳しいトルーマンが、慎重に選んだ旅籠《は た ご》で、フィリエルはけんめいに髪を洗ってみた。けれども、染めて間もない髪は、そう簡単に色が抜けなかった。 「だめだわ……しばらくは、焦げ茶の髪の娘ね。猊下がこの人相で手配を回しているって、気がつくべきだったのよ」  髪の水気をふき取りながら、フィリエルががっかりして部屋にもどると、むずかしい顔でパイプをふかしていたトルーマンは言った。 「おもだった州には、それなりの聖職者が教区をかまえている。手配は全国的と考えていいだろうよ。おまえさんは、この後どうする計画だったんだね」 「バードには、月光浴が必要なの」  自信のない口調でフィリエルは答えた。 「変だと思うでしょうけれど……理想的なのは、月の運行を、東から西までさえぎるもののない場所へ行くことなの。セラフィールドの天文台もそういう場所だけど、今となっては、たどりつけるかどうか——」 「この際、何を言われても驚かんよ。奇跡の赤ん坊だ……酒まで飲む」  トルーマンは、今はすやすやと眠っている寝台の赤ん坊を見やった。バードは結局、栄養になれば乳でも酒でも気にしないらしく、りんご酒と同じくらい麦酒もご機嫌で飲んだのだった。 「国外へ出ることは、考えてみたかね」 「ええ。今はそのほうが、勝算がありそう。ファーディダッド山脈の東は高原の国だから、月も地平まで出ていそうだし」  現在の宿は、都の南、フェラ河に沿った中央街道沿いにあった。この街道はまっすぐ東へ抜けて山脈の南端を越え、やがてはミルドレッド公国へ至るのだ。それを思えば、東へ向かうほうがたやすいことはたしかだった。  これからは、街道を馬車で行く旅しかできないと、フィリエルも思い知っていた。赤ん坊をかかえての旅は、一人旅の苦労どころではなく、その十倍くらいたいへんだということが、身にしみつつあるフィリエルだった。二度と身軽に足を運ぶことはできない。  一人だったらどうにでもなった、食べものも衣類も休む場所も、すべてに制約がかかった。予備の荷物をもたずに動くことはできない。おしめを洗って乾かすことは、移動しながらとなると一大事なのだ。 「わしもそう思うよ。おまえさんは、ほとぼりが冷めるまで国外へ出たほうがいい。赤ん坊をつれてこれ以上逃げ回るのは無理だ」  トルーマンはしばらく考えてから言った。 「今では、このわしも面がわれていることだし、同行はかえってさしさわりがあるだろう……だが、なんとか、あんたを脱出させる方法を見つけるよ。情報部のつてをたよれば、偽造《ぎ ぞう》旅券《りょけん》は手に入るはずだ」 「お願いします。何から何まで、お世話をかけるけれど」  彼が都へ出かけてしまうと、フィリエルはため息をついて寝台に寄り、罪のない顔で眠るバードを見つめた。酒が飲めるとはいえ、赤ん坊は赤ん坊だった。自分の要求をつきつけるだけで、あとは委細《い さい》かまわず、「アブ」とか「ダー」しかしゃべらない。 (……自分の産んだ子どもだったら、もう少しかわいいものかしら)  めんどうの膨大《ぼうだい》さに、フィリエルにはやっかいなお荷物としか考えられなかった。放り出したくなるのを抑えるのがやっとだ。  それでも、赤ん坊のにぎった小さな手や、ぽっちりしかない指の爪、丸いピンクの顔、目から離れたうぶ毛の眉毛などは、見つめるうちに心の和むものだった。これが長身で面長なバードに育つとは、ちょっと信じられない。 (いつかは、あたしも、自分の子どもを腕に抱くときが来るかしら……)  自分の子どもだったら黒髪がいいと考えたフィリエルは、その意味に一人で顔を赤らめてから、いつか見た夢を思い出した。 (……ルーンを産んだ人は、赤ちゃんのその後を見届けることができなかったのだ。どんなに心残りだったろう。けれども、母ではないだれかが、どうにかして赤ちゃんを育てたのだ。たぶん逃げながら、たぶん怯えながら……)  それなら、自分だって、旅をしながら赤ん坊を育ててみせると、フィリエルは考えた。  数日後、宿にもどってきたトルーマンは、用意してきた箱馬車と旅券をフィリエルに見せた。旅券は、メイアンジュリー郊外に住むエルシング・ダドリーとその妻チェリー・ダドリー、息子トルーマン・ダドリーの連名になっていた。 「あの、これって……」 「いやいや、ちょっとした冗談だよ。救世主に自分の名を名乗らせるのは、おこがましいとは思いつつも、ついね」 「そうじゃなくて。この旅券、あたし一人で旅して通用するんでしょうか」 「しないよ、たぶん。だんながいなくてはね」  トルーマンは平然と答え、言葉を続けた。 「いろいろ考えたが、赤ん坊づれで目立たず旅をするなら、夫婦そろっているのが一番だ。あんたの偽装に役立つし、第一、だれかの手助けがなくては旅が続かんよ。エルシング・ダドリーを紹介しよう」  彼に言われて、部屋に入ってきた人物を見れば、三十代くらいの金髪の男性だった。背が高くて姿勢がよく、なかなかのハンサムだ。 「情報部のなかでも、東の情勢に通じている人物をみつくろって、彼にひきうけてもらったよ。国境の検問は彼にまかせればいい。慣れているからね」  フィリエルは思わず、まじまじと相手を見つめた。夫となる人物は、愛想のよい笑顔を浮かべて言った。 「わたしも、チアレンデルまでいく用事をもっているんです。妻子をつれているふりをするのはわけないですよ」  その同情的な笑顔からすると、フィリエルは、父なし子を産んだと考えられているようだった。しかし、この際ぜいたくを言ってはいられなかった。 「それならよろしく。ミルドレッド公国まで行けば、後はなんとかなると思います」  フィリエルが彼と握手をすると、トルーマンは何度もうなずいた。 「さあ、おまえさんもこれからは、人妻のなりをしないといかん。手に入れてきたから、その男ものの服を着替えなさい」  そうしてフィリエルは、久々にドレスを着たが、これほど地味な紺色のドレスは、セラフィールドにいるころでさえ着たためしがなかった。さらに、焦げ茶の髪を隠すために頭巾を被ると、しかつめらしい修道女になったような気がした。  着替えた姿で赤ん坊を抱くフィリエルを見て、トルーマンは目を細めた。 「やれやれ、うり二つだ……わしが目にした救世主の本の挿し絵は、ちょうどそんな感じだったよ。もう一つの神話が真実になるのかもしれん。そうなってもおかしくない気がしてきたよ」 「ご親切は忘れません。きっとまた会える日がありますね」  フィリエルが言うと、彼は涙ぐんでいるようだった。 「奇跡にかかわれたことを、誇りに思うよ……たとえ、二度と会えなくなっても、その子が大きくなることに老後の楽しみができた」  東への旅は順調だった。エルシング・ダドリーは気のきく人物で、ぬかりなく愛妻《あいさい》ぶりを発揮してみせ、赤ん坊の乳の手配をしたり、おしめをかえることさえいとわなかった。おかげでフィリエルはずいぶん助かった。  それでも、気ままなふるまいのできない毎日には、別の苦労があった。夫婦を名のる以上、宿に泊まっても二人の部屋を分けるわけにはいかない。エルシングは長いすや床に寝ることに文句を言わなかったが、フィリエルは申しわけなさでいっぱいで、絶えず気づまりだった。 「がまんばかりさせてしまって、本当にごめんなさい……」  何度もあやまるフィリエルに、エルシングは笑顔で何度も答えた。 「たいしたことじゃありませんよ。ご婦人の便をはかることができないようでは、男じゃありませんからね」 「でも、いつもいつもでは、あまりに不公平だと思うの……」 「不公平? おもしろいことをいう人ですね」  陽気な口調で彼は言った。 「何のために、男のほうが体が大きく頑丈にできていると思うんです。それは女性を守るためだと、グラールの男なら、母親から始終言い聞かされて育ちますよ」 「そうですか……」  ディー博士は、グラール育ちではなかったのではないかと疑いたくなるフィリエルだった。当然、弟子のルーンも言い聞かされていないと思える。  山脈越えにかかっても、エルシングの態度には変化がなく、本当に身についた態度なのだということがだんだんフィリエルにもわかってきた。大事にされることに慣れるのは、怖いくらい簡単だった。  ルーンとでさえ、これほど昼夜いっしょに過ごしたことはない。そして、ルーンがこれほど何くれとなく妻の様子に気を配るところは、ちょっと思い描けなかった。  フィリエルは、赤ん坊に向かってわけ知り顔につぶやいた。 「やさしい夫をもつかどうかは、大きなちがいね……夫婦は生活なんだから」  赤ん坊の世話に忙殺《ぼうさつ》されてさえいなければ、自分は彼のやさしさにぽーっとするかもしれないと、思わず考えるのだった。だが、やっぱり赤ん坊の世話に忙殺されていた。  バードは食欲も旺盛《おうせい》で、色つやよく健康そうに見える。だが、前もって言っていたほど急速に成長しないのだった。旅を初めてから、いくらも大きくならない。手のかかる赤ん坊のままで、おしゃべりもできず、フィリエルはその点が気がかりだった。 (まさか、ふつうの赤ちゃんと同じ速度でしか成長しなかったら……それだけで、すべてがおしまいだわ。ルーンを救うのに間にあわない)  月光浴が足りないかと、寝不足になるほど遅くまで外に出ているフィリエルだったが、森の茂る街道沿いでは、照る月も限られていた。思いわずらってみても、育て方のせいなのか、地上で生まれた条件がまずかったのか、助言をくれる人はどこにもいないのだった。  ファーディダッドの最初の峠を越え、ふもとまで下ると、そこが国境の町だった。貧しい山村ばかりを通り過ぎたが、ここティンバレンは盆地ながら土地が開け、いくらかにぎわいを見せている。国境の門と役所が夕方には閉まるため、行き交う旅人の多くが宿をとるからで、旅の客相手の店なども、この界隈《かいわい》にしては数が多かった。  夏場とあって、宿屋は満杯の状態だ。検閲《けんえつ》待ちの人の多さに、フィリエルたちも宿をとらざるをえなかったが、泊めてくれる宿屋を見つけるには苦労を要した。 「あと少しなのに。じれったいわ」  狭い部屋でフィリエルがため息をつくと、エルシングは気の毒そうにほほえんだ。 「明日、朝から検閲に並んでも、けっこう時間がかかりそうですね。こうなったらのんびりかまえたほうがよさそうですよ。そういえば、宿を探し回ったときに、中央広場で営業している旅芸人のテントを見ました。時間つぶしの客が多いのでしょうね。興味がありますか?」 「えっ、行ってもいいの?」  フィリエルは一瞬顔を輝かせたが、すぐに沈んだ声で言った。 「そう思っても無理ね。赤ちゃんを置いていくわけにいかないもの」 「いや、たまにはわたしが赤ん坊を見ていましょう」  思いやり深くエルシングは言った。 「もうずっと、馬車と宿に閉じこもるばかりで、うっぷんがたまっているように見えますよ。目立つことは危険ですが、少しサーカスをのぞいてくるくらい大丈夫でしょう」  思わずフィリエルは両手を合わせた。 「あなたのような人がだんな様だったら、女の人は本当に幸せね」 「おや、これは光栄ですね。じつはまだ独身なんですが、この際、本当の夫婦になろうと考えてみませんか?」  からかい混じりとわかっているので、フィリエルも笑った。 「そちらこそ、子持ちの女にご親切だわ。あなたの気が変わらないうちに、ちょっとだけ行ってくるわね」  胸がはずむのを押さえきれず、フィリエルは既婚婦人のなりだということも忘れて、足早に広場へ向かった。ずいぶん長い間、気晴らし一つなしにやってきたのだ。手ぶらで歩くというそれだけのことが、これほどすがすがしいとは思いもよらなかった。  広場の人通りは多く、木から木へ花飾りをわたして、ちょっとした夏祭りの様相だった。屋台もちらほら見かけられる。赤と黄色の派手なテントはよく目立ち、入り口の台にのった男が述べたてる、威勢のよい口上も聞こえてきた。 「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。金の子馬サーカス一座、今宵が最後の出し物だよ。明日には我らも国の外、お見のがしは一生の損《そん》だ。これにて始まるは、美女の空中|乱舞《らんぶ 》、曲乗りナイフ投げ男、物知り博士犬のご託宣《たくせん》。さあさあ、お立ち会い——」  入り口にはひとかたまりの人がいて、並んで待つあいだに、フィリエルはぼんやりと考えた。 (ルーンがいたという旅芸人の一座は、どんな感じだったのかしら……)  幼いルーンは、旅芸人の話になると必ず顔をこわばらせた。今、目の前にある華やかな芸人のテントからは予想もできないが、つらい仕打ちを受けたにちがいない。長じても、彼はそのころの話をほとんどしたことがなかった。 (好きこのんで一座の人間になったとは思えない。少なくとも、ルーンの母がわりになって育てた人は、彼を旅芸人にしたくなかっただろうに……)  考えこむうちに、ふいにわかったような気がした。そして、背筋に冷たいものが走るのを感じた。 (さらわれたのだ……ほんの少しの間、彼女が子どもから目を離した隙《すき》に……別の楽しみに気をとられた隙《すき》に。きっと、今のあたしのように)  一瞬、刺すような冷たい感覚を味わってから、フィリエルはきびすを返して駆けだした。 (あたしったら、なんてことを。ほんの少しの間も、手放したりしてはいけなかったのに……)  宿に駆けもどる途中では、自分の動揺をばかみたいだと考えもした。それでも、つのる不安は大きくなるばかりだった。理屈ではなく、フィリエルの直感が告げていた——赤ん坊から離れてはならなかったのだと。  宿屋に飛びこんだフィリエルは、裾《すそ》をたくしあげて階段を駆けのぼった。そのままの勢いで借りた部屋のドアを押し開けたが、笑いながら、どうしたとたずねるエルシングの姿はなかった。窓際の寝台に寝ていたはずの、赤ん坊の姿もなかった。 「エルシング。エルシング——どこ?」  フィリエルは悲鳴のような声を上げた。彼は、赤ん坊をあやしに外へつれていったのかもしれないという、はかない望みを抱いたのだ。すると、フィリエルの声にごく小さな声が応じた。 「彼は、来ません……」  猫が鳴くような声は、開いたドアと小物《こ もの》箪笥《だんす 》の隙間から聞こえた。フィリエルがびっくりしてのぞきこむと、そこに、つぶらな瞳をした二、三歳くらいの子どもがいて、こちらを見上げていた。どういうわけか、フィリエルのショールを体に巻きつけている。  フィリエルがまばたきしかできずにいると、子どもはさらに言った。 「着るものがないんです。どこかで調達できませんか……?」  まだ舌足らずで「ちょうちゃつできましぇんか」と聞こえた。だが、こうなったら取り違えようがなかった。 「バード、あなたったら……」  思わずへたへたとひざをついて、フィリエルは気の抜けた声を出した。 「今まで、ちっとも大きくならなかったくせに……」  幼児は舌足らずなくせに、偉そうに言った。 「事情を知らない同行者の前で、そんなに大きくなるわけにいかないじゃありませんか。セーブしていたんです」 「なによ、今の今まで、本物の赤ちゃんみたいなふりをして。本当はいろいろわかっていたのに、知らんぷりをしていたのね」  驚きがおさまると、フィリエルは腹が立ってきた。わかっていながら、彼はのうのうとミルクを飲んで眠り、フィリエルが世話をおこたろうものなら、大声で泣いていたのだ。  バードはすましたものだった。 「脳の発達は身体能力に優先されます。けれども、おしめが完全に取れるまでは、会話したくないものですよ。何かと体面《たいめん》が悪いです」 「今はもういいの?」 「ええ、あなたがよく月の光に当ててくれたし。そうこう言ってはいられなくなりました」  バードの顔立ちは赤ん坊のままに丸く、けれども前より賢そうで、とがった口元が愛らしかった。白い髪もふっさりと厚みができ、かわいらしい盛りと言えるかもしれない。しゃべる声もまるで子猫のようだった。  だが、言っていることは幼児ではなかった。 「エルシングに、あなたを国外へ出す気はさらさらありませんよ。今は、仲間と連絡をつけに出かけたところです。あの人物はスパイ——たぶん、フィーリの息のかかった人間です」 「あの人が?」  フィリエルは直感の正しさを知ったが、それでも納得できない気がした。 「でも、でも、彼はトルーマンさんが見つけてきてくれた情報部の人よ。まちがいはないはずなのに……」  幼児は無邪気そうに見上げた。 「宿屋のご亭主は、気のよすぎる人物です。陰謀には不向きです。なんでも信じたでしょう?」  その点はフィリエルも、認めざるをえなかった。  こうなったら、ぐずぐずしてはいられなかった。第一、赤ん坊が突然三歳になったことを、だれにも言い訳できない。エルシング・ダドリーがもどってくる前に、逃げ出さなくてはならなかった。フィリエルは子どもをかかえあげると、こそこそと宿を後にした。  幼児ともなると、抱いているのはやたらに重かった。チェリー・ダドリーの身分証明をなくして、どうやって国境を越えたらいいかさっぱりわからなかったが、とりあえずは、バードに服を着せなくてはならない。財布はポケットにあるので、フィリエルは古着屋に立ち寄って、適当な服があるかどうか探した。  一番小さい上着とズボンを選んでも、袖と裾を何重にも折ることになったが、ショールでくるんでいるよりはましだった。吊した古着の陰で、子どもに服を着せてしまうと、フィリエルは少し気が楽になった。  そこで、自分の服も物色しはじめた。どうせなら、今のおばさん服を脱いで身軽になろうと思ったのだ。古着屋の店主は、おかしな客をうさんくさそうに見ていたが、フィリエルがぴかぴかの銀貨で支払ったために文句を言わなかった。  彼女が、男ものの緑の上着を手にしたときだった。いきなり伸びてきた男の手が、その手首をつかんだ。ぎょっとして顔を上げると、エルシング・ダドリーが立っていた。 「とうとう、ぼろを出したようですね」  ほほえんだ顔はハンサムで、口調は相変わらずていねいだ。だが、フィリエルも今ではその奥の冷たい響きを聞き取っていた。 「いったいその子どもは、どういうわけです」 「はなして」  手首をふりもぎろうとしたが、彼は離さなかった。顔をつきあわせる形になって、フィリエルはささやいた。 「あなたこそ、あたしをだましてどこへ行っていたのか聞きたいものだわ」 「だます? いつわった身の上はおたがいさまじゃないですか」  エルシングは言い返した。 「その不気味な子どもはなんです。それは人間の子どもじゃない。そうでしょう? わたしは、海宝亭の亭主ほどおめでたくないんだ。異端にもほどがある」  大きすぎる服を着込んだバードは、男から離れようと、じりじりと後ずさっている。フィリエルは息をのんで言った。 「なんてことを言うの。そんな目でみながら、今日までいっしょに世話してくれたの?」 「宿に司祭を呼んであります。魔物の子を引きわたし、あなたもついでに清めてもらいなさい。憑《つ》かれているようだから」  決定的な裏切りに、フィリエルはぼうぜんと彼を見つめた。 「聖堂関係者ね……ヘルメス党ではなく」 「もしもあなたが、わたしの奥さんとして葬られたら、いと高きところに、なかなか愉快に思われるかたがおられるかもしれませんね」  すくんだフィリエルの顔に、冷たい笑顔を向けてエルシングは言った。 「化け物を育てているとなれば、これほど明瞭《めいりょう》な罪状はない。ずいぶん上手に赤ん坊に見せかけていたが、こんなけがらわしい行為を平然と行うとは、あなたもたいした女ですよ」  フィリエルの腕をねじりあげると、男はもう片方の腕を伸ばし、たやすく子どもの襟首《えりくび》をつかんで引き寄せた。 「何するのよ」  瞬間、フィリエルは激怒した。それは、苦労して育てた子どもに危害を加える者への怒りであり、こんな男の見せかけでしかないやさしさに、うかうかとだまされたことへの怒りだった。これほど凶暴な感情にかられたことは、かつて覚えがないくらいだった。  フィリエルは、だてにケインと仲がよかったわけではないのだ。ルーンが研究にこもる間、無為《むい》にすごしたわけでもない。しかし、エルシングは彼女をおとなしい女と思いこみ、人目の多いなかでは抵抗もできないとたかをくくっていた。  紺のスカートがひるがえったと見るや、フィリエルは渾身《こんしん》の力で男の急所を蹴《け》り上げていた。エルシングがたまらずに幼児を離し、体を二つに折りかけたところへ、あごにひざ蹴りをお見舞いする。それから、両手を握り合わせてふりあげ、左のこめかみを横ざまになぐりつけた。さらには、倒れるばかりになった男を背中から蹴りつけ、速度を速めてやった。  エルシングが道ばたの土にまみれて初めて、通りを歩いていた人々が、何ごとかとふり返った。  古着屋の店主は、目を見はってつぶやいていた。 「なんちゅう、おっそろしい夫婦げんかだ……」  はっとわれに返ったフィリエルは、あわててめくれた裾をなおした。そして、けがもなく立ち上がった子どもに駆け寄り、そのまま小脇にかかえて逃げ出した。  通りの端まで走ってからふり返ると、立ち上がれないエルシングに群がる数人の男が見えた。彼らは顔を上げ、わめきながらフィリエルのほうを指さしていた。 (まずい……)  幼児をかかえていては、そうそうすばやく走って逃げることができない。このままでは逃げきれないとさとったフィリエルはあせった。しかし、かくまってもらう場所はない——ヘルメス党の内部にさえスパイがいたのだ。今のフィリエルには、味方になってくれる人々を識別することができなかった。  路地裏をさんざん駆け回って、もう体力の限界だと思ったときだった。目の前に、赤と黄色のテントが見えた。フィリエルが見物するつもりだったサーカスだ。  これに望みをかけたというよりは、ほとんどやけだった。あと一歩も、子どもをかかえて走れないとさとったからだ。フィリエルは、テントの壁をめくって中へすべりこんだ。      五  そこはたぶん、ステージからは裏側にあたる場所であり、観客席などは見えず、丸太を縄《なわ》でしばった舞台の骨組みがじかに見えた。あたりには、大小の木箱が雑多に積み上げてある。出番を終えたところなのか出番を待っているところなのか、見事に派手な黄緑色のタイツをはいた男がいて、びっくり顔でフィリエルを見ていた。 「お願い、かくまって。男たちが大勢追いかけてくるの」  必死の声でフィリエルはたのみこんだ。 「捕まえて、この子を奪おうとするの。お願い、あたしたちを助けて」  男は肩をすくめ、そばの大きな木箱を指さした。フィリエルはただありがたく、無我夢中で子どもとともに木箱に入りこんだ。  しばらくしてから、きちんと入り口を通ったらしい男の一団がやってきた。木箱にふたをされ、暗闇でその物音を聞いていたフィリエルは、自分と子どもの人相書きが、そうとう詳しく述べ立てられるのを耳にした。 「さあねえ。どこにでもいそうな母子じゃないですか」  ものうい口調で言うのは、タイツ男であるらしかった。 「見かけたと言えば見かけたし、知らないと言えば知らないな。お客さん、言わせてもらえば、ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ。集中力をなくしてナイフを同僚に刺したら、あなたがたは責任とってくれるんですか?」  それでも男たちはねばり、あちこちの木箱を探ってみたようだが、上にいくつも重い箱を積み上げたフィリエルたちの居場所を見現すには至らなかった。 「あの女は魔女だ。いかにも逃げこみそうな場所には逃げこむはずがない。今ごろ遠くまで足をのばしたに決まっている」  男の一人が言い出し、彼らはあわただしい足音を立てて引き上げていった。フィリエルはそれでも、思いなおして引き返してこないかと疑っていたが、やがて、積み上げた木箱を取りのける音がして、頭上のふたが開けられた。 「出てらっしゃい、もっぱら逃亡中のご婦人とお子さん。あなたを捕らえようとする連中は、行ってしまいましたよ」  木箱から頭を出すと、黄緑のタイツの男がにこやかにのぞきこんだ。 「かよわい子づれのご婦人一人に対して、むさくるしいのが数名とあっちゃ、どちらに肩入れするかは自明です。そのお子さんは、あなたのお身内ですか?」  フィリエルはためらわずにうなずいた。 「そうです。あたしの子です」  すると、タイツ男はいくらかびっくりしたように言った。 「ずいぶん、大きなお子さんがいらっしゃるんですね。二十歳にもならないようにお若く見えるのに」  フィリエルが不審に思ってかたわらを見やると、六歳くらいの年齢と言えるバードがそこに並んでいた。  子どもは小声で言い訳した。 「……自分で走れないのは、まずいと思ったんです。それに、もう少しこの服に見合った体になるべきだと思って」  たしかに、まくりあげてやらなくてはならなかった袖も裾も、今ではバードの身長に合っていた。フィリエルは思わず彼をこづいたが、責めてもしかたがなかった。 「ええ、若く見えるとよく言われます。うれしいことですけど」  フィリエルは旅芸人の男に向かい、むなしく笑ってみせた。 「ふうん。どうやらお子さんは、あまりおかあさんには似なかったようですね。なにやら事情がありそうだが、べつにかまいませんよ。ここには事情のある人間がたくさんいますから」  旅芸人の男はむぞうさに言って、木箱のそばを離れた。詮索《せんさく》する気はないらしい。いかにもどうでもよさそうだった。 「なんなら、わたしたちといっしょにミルドレッドへ向かいますか? 明日にはここを発つ予定です。逃げているところをみると、国外へ行きたいでしょう」 「そうお願いできたら——」  言いかけて、フィリエルは口をつぐんだ。 (この人、なんだか、言葉づかいがていねいすぎる……)  よくよく見なくても、最初からわかっていたことだが、この男も髪の色が淡く、人をひきつけるハンサムだった。エルシングよりは体格が小さく、芸人らしいほっそりした体つきをしているが、場末のサーカスとも思えない、婦人への礼儀正しい接し方がエルシングに似ている。  そして、いかにも親切そうに、フィリエルの最も望むところを申し出るあたり、あまりにも怪しかった。 「あの……もうしわけないけれど、金髪でハンサムなかたは信用しないことにしたんです」  上目づかいにフィリエルが言うと、タイツの男はおやおやと言って笑いだした。 「もしかして、そういう男に泣かされてきたんですか?」 「あなた、独身?」  フィリエルはまじめにたずねたのだが、男はこれにも吹きだした。 「いえいえ、愛妻がいます。もっとも、正式な結婚式はこれから挙げる予定なんですが」  彼がそう言っているあいだに、柱の陰から、やはり舞台衣装をつけた人物が現れた。こちらはきらめく濃ピンクのビーズに覆われた、体にぴったりしたドレスの女性だった。 「ガーウィン」  彼女はつやのある声で呼びかけた。 「こんな裏手で何をしているの。もうすぐ最後の総出演よ」 「迷子の奥さんと子どもを見つけたよ。金髪で女たらしの悪者から逃げてきたらしい」  旅芸人の男はふり返って言うと、フィリエルに向かってうなずいた。 「妻のサヴィーネです。もうしばらく浮気をする予定はないので、安心していいですよ」 「何の話なの、浮気って」  聞き捨てならない様子で近寄ってきた彼女を見て、フィリエルにも納得できた。あでやかさも色っぽさも、フィリエルには足元にも及ばないと思わせる女性だった。深くくくったドレスからのぞく、胸の谷間のみごとさはたいしたものだ。 「あらあら、奥さんってこのかた? ずいぶんお若いのにわけありそうね」 「子づれで逃げているのを見ると、ついつい放っておけなくてね」  彼らの会話に、ふいに思い当たってフィリエルは口を開いた。 「たしかにこの子はわけありだけど、あなたがたに売る気はさらさらありませんよ。旅芸人が子どもをどう扱うか、あたしはよく知っていますもの」  これを聞くと、サヴィーネもいっしょになって笑いだした。なにがそんなにおかしいのか、フィリエルにはさっぱりわからなかった。 「座長がやきもきしているから、あたしたちはもう行かないと。けれども、かわいらしい奥さん、無理じいはしないけれど、あたしたちに助けてほしかったら、ショーが終わるまでそこにいなさい。別にいやなら出ていってもいいのよ」  二人がつれだって行ってしまうと、フィリエルは考えこんだ。信用できるかどうか、まだわからなかったが、サヴィーネの突き放した言い方にはみょうに威厳があった。  しばらくして、バードが小声で言った。 「いいんじゃないですか、ここにいて……」 「あなたは知らないでしょうけれど、旅芸人というのは危険な人たちなのよ」  フィリエルはつんとして言った。 「あたしが決めるから、あなたは黙っていなさい」 「でも、危険と知っているなら、どうしてここへ逃げ込んだんです?」 「もう走れなかったからよ」  白っぽい髪の男の子を見やって、フィリエルは恨めしげな声を出した。 「大きくなったのなら、エルシングの記憶を消すとかどうかして、役に立つことはできなかったの? 全部があたしの体力勝負だなんて、旗色が悪すぎるわよ」  まばたきして彼は言った。 「無理ですよ。そういう高等|技能《ぎ のう》は、完全体になるまで待たないと。まだ、今の段階ではシナプスが足りなすぎます」 「あーあ」  フィリエルはため息をついた。旅芸人たちがどんなに怪しくても、ここを出たからといって、無事に旅を進めるどんな手段もないのだ。 「彼らに賭けてみましょうよ」  バードは明るい声で言った。 「いざとなったら、ワタシ、芸くらいしてみせますよ?」  どんなことが起こるか知れないと、覚悟を決めてガーウィン夫妻の世話をうけたフィリエルだったが、ものごとは意外とスムーズに運んだ。  興行場所をミルドレッド公国へ移そうとする座長は、忙しくて、フィリエルの身元をさらうひまなどないのだった。もっとも金にはがめつく、食事を提供する代金として、ずいぶん銀貨を巻き上げられた。 「だめよ。あなたったら世間知らずね」  フィリエルが支払った額を聞くと、サヴィーネは物陰に呼んで小声で叱った。 「足もとを見られているって、わからないの。そんな態度じゃ、あの男、もっともっとつけあがるわよ」 「でも、事情を言わずにすむなら、多少のお金はかまわないと思って……」 「甘い甘い。今の金額には、ガーウィンとあたしのぶんが含まれていると言ってくるわ。今夜のごはんはぶどう酒つきにしてもらう」  フィリエルがびっくりしていると、彼女は目くばせをして言った。 「じつをいうと、あたしたち二人もこの一座の飛び入り芸人なの。そして、国を出たらさっさとお別れよ。だって、あたしたち、御子神エルイエシスの御前で結婚式を挙げるんですもの」  旅芸人たちの食事は、野外で煮炊きも食べもする粗野なものだったが、ガーウィンとサヴィーネはテントの中に木箱で自分たちの食卓をしつらえ、赤ぶどう酒一瓶をせしめて楽しい夕食をとった。つきあったフィリエルも、久々に気持ちのいい食事をした。  それは、この夫婦が陽気で気さくでおもしろく、はた目から見ても深く愛しあっているからだった。ガーウィンは、妻に向かうとずいぶんくだけた口調になり、そのほうがずっと感じがよかった。けれども、フィリエルに対しては一貫《いっかん》してていねいな口をきき続けた。  彼らのやりとりが、フィリエルには心底うらやましかった。 (……あたしとエルシングが交わしていた会話とちがう。当然よね。やさしさや親切は、愛情のあかしにならない。打算をかかえていたってできることなんだもの……)  ガーウィンはとにかく美男子なので、あちらこちらでもてて、サヴィーネはやきもきしているらしかった。何かと当てつけを言って閉口させるのだが、それも仲睦《なかむつ》まじさのうちと見えた。ロウソクの明かりに輝く二人の顔は、お互いがいるだけで幸せだと語っていた。 (いいなあ……)  今夜は眠れなくなりそうだと思いながらも、フィリエルは夢想せずにいられなかった。自分とルーンがこんなふうに会話する日が再び来るなら、何に換えても惜しくないような気がした。  翌朝になると、国境の門が開いた。フィリエルには冷や冷やものだったが、門の衛兵たちは、旅芸人と見ると見下した態度をとり、座長の認可証を確認したあとは、一行の幌馬車を通しに通した。あまりのあっけなさに、ミルドレッド公国の地に至ってからぼうぜんとするくらいだった。  しばらく進むと、行き先に高原が開けて街道の町メムロンが見えてきた。ここは小さな宿場町であり、旅人の大部分は大公屋敷のあるアッシェンドまで足を伸ばす。一座もまたそうだったが、ガーウィン夫婦がここで降りると言うので、フィリエルも子どもの手を引いて馬車を降りた。バードにはまだ月光浴の必要があり、あたりに何もない場所がよかった。 「ここまで逃がしてくれて、本当にありがとう——」  フィリエルは二人にお礼を述べはじめたが、全部言わないうちに、言葉をなくしてしまった。旅芸人の馬車が去るのを待ちかねていたように、彼らに近づいてきた男のせいだった。 「ケイン?」  それはケイン・アーベルだった。ヘルメス党の黒い服。隙のない身ごなしが生む、優雅な足運び。こうしてしばらくぶりに目にすると、疲れた表情さえもがなつかしかった。 「ケイン——どうしてここに」 「探しましたよ。無事でよかった」  彼らを見比べていたガーウィンが、軽い口調でたずねた。 「あなたが逃げていたのがこの男からだったなら、やっつけてあげましょうか? 一目瞭然《いちもくりょうぜん》に、その子のおとうさんですね。いや、まったくよく似ている」 「いいえ、ちがうの。この人は守ってくれるの」  ふいに胸がいっぱいになり、フィリエルは進み出てケインの黒服にとりすがった。 「よかった、会えて……」 「それなら、無事めでたしめでたしなんですね」  ガーウィンはほっとした様子でうなずいた。 「そうだったら、わたしたちも安心できる。わたしたちのほうも、ここへは仲間が迎えに来ているはずなんです」  きょろきょろしていたサヴィーネが、目を輝かせて指さした。 「あっ、いたいた。あそこだわ」  数人がつれだって馬に乗るなかから、飛び降りて駆け寄ってきた人物がいた。見れば、明るい顔つきの若い男で、外国の衛兵の服装をしていた。 「まったく、とんだ新婚旅行をしてくれるお二人さんだよ。首尾はどうだい」  彼は、ガーウィンにくだけた調子で声をかけ、うれしそうに抱きついた。 「上々に決まっているさ。依頼の仕事はばっちり片づいたしね。そっちはどうしていたんだい」 「なーんにもなし。退屈で困っているくらいさ。こんなきゅうくつな制服を脱いで、早くもとの稼業にもどりたいよ」 「もうしばらくは、辛抱してトルマリンで働くんだね。ほとぼりが冷めるまで」  フィリエルは、楽しそうに話を交わす彼らを見ながら、ぼんやりと、ガーウィンのほうが貴族的な美貌の持ち主だけど、自分の好みはこちらの若者だなと考えていた。黒髪で、衛兵にしては小柄で、いかにも敏捷《びんしょう》そうな体つきをしている。  そんな彼女に、ケインが鋭くささやいた。 「フィリエル、いったい何があったんです。あなたが王宮へ行くはずがないのに、ディルがそう言うので耳を疑いましたよ。確かめたところ、今度は情報部の連中が、あなたは中央街道を東へ向かったと言うではありませんか」  はっとして、フィリエルは彼を見上げた。 「そうだわ、ケイン。あたし、あなたはルーンを追っていくとばかり思っていたのよ。ディルから、あなたがルーンと果ての壁へ出かけたと聞かなかった?」 「聞きましたよ。あいつはどこかで催眠術にかけられていますね。しかし、情況を思えば、ルーンよりあなたのほうが危険だったので、あなたを探しました」 「ちがうのよ。危険なのはルーンのほうなの」  フィリエルがしどろもどろに説明しているあいだに、ガーウィンとサヴィーネは馬上の人になっていた。じゃあと手をふる彼らに、フィリエルはあわててふり向いた。 「あっ、まだお礼が途中で——」 「いいんですよ、元気でお子さんを育ててください。たくましいいい子にね」  去っていく彼らと馬を並べて、出迎えの若者が熱心に語っているのが遠く聞こえた。 「デリンが二人のパーティを盛大に計画しているよ。あのじいさん、近頃ホロホロ鳥にこりはじめて、たぶんテーブルは鳥づくしだぜ——」  そのときまで、フィリエルには閃《ひらめ》くものがなかった。だが、彼らが遠くなってはじめて、息をつまらせてケインの腕をつかんだ。 「ケイン……今の人……ルーンに似ていなかった?」 「小柄な若者のことですか? そういえば、少し似ていたかもしれませんね。目の色がちがいますが」 「もしかして、あの人……ルーンのお兄さんじゃ……」 「はあ?」  アデイルたちの体験を知らないケインは、困惑しただけだった。 「それは飛躍のしすぎでしょう。それよりもフィリエル、どういうわけであなたは子づれなんです。しかも、わたしの子と言われていたようですが」  六歳の子どもが、落ち着きはらった声音で言った。 「そこはご安心ください。あなたがフィリエルと不義《ふぎ》を働いたとは、だれにも言わせませんよ」  ケインがめんくらって絶句しているあいだに、子どもはにっこりしてフィリエルを見上げた。 「フィリエル、大人用の服を用意してくれませんか。ようやくわたしも、完全体になることができそうです」 [#改ページ]    第三章 悪党のことわり      一  ルーンが走り書きでバーンジョーンズ博士にあてた手紙は、次のようなものだった。 バーンジョーンズ博士  われわれは果ての壁から目を離すべきではないと、ぼくはずっと考え続けていました。竜の群の侵入を防ぐあの見えない壁が、何のためにどういう技でもうけられたのか、いまだに謎《なぞ》につつまれているものの、あれはこの世界を左右する大きな鍵です。そのことを、今回あらたに確信しました。セラフィールドの天文台で観測したデータは、壁が消えかけていることを示唆していました。もちろんこのことは、壁が周期的に変化するものでないと立証されない限り、いちがいに大事とは言えません。けれども、思いがけない筋から、壁の消失とブリギオン軍の侵攻には関連があることを教えられました。  思いがけない筋とは、われわれの仇敵である異端審問官です。奇妙な人物でした。シンベリンでこの人物に出会い、ぼくは自分の意志で、南の果ての壁まで調査に行く決意をしました。  身勝手な行動をお許しください。みんなに報告し、相談する時間がとれないと判断したためです。ディー博士が生涯をかけて探ろうとした謎が、この世界における壁の存在なのです。消失してしまう前に、どうしても見きわめなければなりません。  手紙といっしょに、天文台で得た数値と計算から導かれる数値の対比を同封します。ケインには、ぼくの心配はしなくていいと伝えてください。  フィリエルをどうかよろしく。 [#地付き]ルンペルシュツルツキン 「左利きなんですね」  ペンを走らせるルーンを見ながら、吟遊詩人はおもしろそうに言った。 「利き手と脳の関係を知っていますか?」  ルーンは無視して書き続けた。だいたい、すべてを語れない手紙を書くこと自体、いまいましかった。くだんの異端審問官とともに行動するとは、いくら思想の柔軟なバーンジョーンズ博士あてであっても、打ち明けるわけにいかなかったのだ。  バードは彼の不機嫌を気にせず、明るく言った。 「そうだ、わたしも手紙を書くことにしよう。ルーン、あなたにあてた手紙です」  何を思ったのか、バードはルーンの隣で、左利きをまねして手紙を書きはじめた。そして、便せんをたたむと封に入れ、ルーンにさしだした。 「この手紙は、わたしのいないところで読んでくださいね。きっとですよ」 (なんだ、こいつ……)  同行を承知したからといって、うちとける気のないルーンは手を出さなかったが、吟遊詩人はテーブルにそれを置き、さっさと行ってしまった。バーンジョーンズ博士あての手紙と並べておくのも気がひけて、ルーンはもって食堂を出た。  荷物を取りにいくついでに便せんを広げてみると、手紙には、なかなかの達筆でこう書いてあった。 ルンペルシュツルツキンどの  旅に出たら、わたしを信用してはいけません。わたしは善良ですが、最終的にはあなたを殺すでしょう。  わたしは危険ですが、殺すのはやめておいてください。その場で生死の危険にさらされます。たぶん、あなたに回避はできないものと思われます。  それよりは、わたしと話す努力をしてください。友好的にデータがとれるあいだは、おそらく、比較的安全な日々が続くと思われます。あなたが生きのびる手段は、時間をかせぐこと、それに尽きるのですから。 [#地付き]バードより (なんだ、こいつ……)  ルーンはあきれて手紙を荷物に入れた。これほどわけのわからない人物に、お目にかかったのは初めてだった。  本人から言われるまでもなく、ルーンは吟遊詩人を信用などしていなかった。果ての壁の消失をバードが語ったのは事実であり、ぜひともすぐに調査したいと心がうずいたのはたしかだが、ルーンが南へ行く決心を固めたのは、そればかりが原因ではなかった。  この異端審問官は真実危険であり、彼をヘルメス党の仲間やフィリエルから引き離すためには、自分が遠くへおびき出すしかないことを、彼の言葉から納得したからだ。  そして、バードがこう語ったことも影響していた。 「——フィリエルがすでに知っていることを、あなたも知りたいとは思いませんか。そのために、クリアするべき条件がこれなのです。わたしと南の果ての壁まで旅し、あなたが女王候補のそばにいるにふさわしい人物かどうかを、わたしの前で立証してみせること。いかに難関であっても、価値のある試みだと思いませんか?」  それゆえ、ルーンには野心があった。危険は覚悟の上だが、吟遊詩人はグラール女王の秘儀《ひぎ》の根源にふれる人物だ。彼と接触することに、得るものがないとは思えなかった。  ルーンが旅用の荷物をかかえて、まだ暗い外に出ていくと、ケインによく似た吟遊詩人は、竪琴ばかりを肩にして平然と待っていた。 「あんたは、旅の|糧 食《りょうしょく》をこちらにたかる気?」 「そうできるといいですね。ですが、わたしは大食らいです」  にこりとして、吟遊詩人は言った。 「ご心配なく。もっている路銀《ろ ぎん》は豊富ですから、わたしと旅をするなら、少なくとも飢えて死ぬことはありませんよ」  ルーンは笑わなかった。ただ黙って、長い旅への一歩をふみだした。意味がないことがわかっていたから、二度と後ろもふり向かなかった。けれども、自分が生まれて初めて身につけた金の鎖、その先に下がる青い石が服の下に収まっていることを、ずっと意識し続けていた。  ルーンは最初から、吟遊詩人の一挙一動に目を配っていたが、バードが平凡と言っていい体力しか見せないことは、二、三日もすればわかってきた。  彼らの旅は先を急ぐものではあったが、目的地の遠さからいっても、無茶のできる行程ではない。吟遊詩人はそれを心得ていて、日中にも二度の休憩をきちんと取り、夜は休み、少々無理に距離をのばしたときは、次の日をゆっくりにした。  登り坂を越えるときも、川の飛び石をわたるときも、バードに特別な敏捷《びんしょう》さは見当たらなかった。手足は長いが、ごく人並みの運動能力の持ち主だ。はっきり言って、ルーンとそれほど差がなかった。 (ふいに攻撃されても、回避不可能というほどじゃないだろう。チャンスはある……)  ルーンはこっそり見積もったが、相手が無能なふりをしている場合がないわけではなく、引き続き観察するのが賢明だった。  旅の起き伏しに関して、バードに変わった部分は見られなかった。この男は、疲れるべきときに「疲れた」と言い、空腹になるべきときに「腹がへった」と言い、自分で宣言したとおりに、じつによく食べた。  それでもルーンは、何とも言えない違和感がつきまとうのを感じていた。それがどこから発するものなのかは、はっきりつかめない。もしかすると、たえず身構えているルーンに対し、バードがあまりにもくつろいでいるせいかもしれなかった。  この吟遊詩人は緊張することがなかった。最初ルーンは、相手が自分を見下して、まるっきり危険視しないことが腹立たしかったが、やがて旅を続けるうちに、その他の危険に対してもそうとう無関心だとわかってきた。暗闇の物音や、不穏な人だかりといった、旅人なら神経を尖らせる場面に出くわしても、バードののんきさは変化しないのだ。 「そのときはそのときですよ」  いつでもバードは言うのだった。しかし、能天気かと思えば意外とそうでもなく、目と耳はたいへん鋭かった。 「今のは、自警団の見回りです。足運びが雑でいい加減だし、つま先にこもる害意がまったくありませんから、心配いりませんよ」 「この道は迂回しましょう。木の幹と土の上につけたばかりの傷があります。たとえ夫婦げんかで鍋を投げただけにしろ、トラブルにつっこんでいく必要はありませんからね」  バードがむぞうさに下す判断は、当てずっぽうではなさそうだった。しかも、よほどの経験をつんだ人物でなければ、言い当てることのできないものだ。 (ものすごく旅慣れしている……年季が入っている……)  ルーンはそう感じるのだが、それならば、どうしてルーンと同程度にしか体力的に鍛えられていないのか、理解に苦しむのだった。  野宿をするときや、草の上で休憩するとき、バードは竪琴を取り出して、和音をかなでて耳をこらし、あくことなく調弦をくり返していた。それが彼のひまつぶしのしかたらしかった。吟遊詩人としては当然の態度かもしれない。 「何か一曲、歌いましょうか?」  最初のうち、竪琴にさわるたびに、バードはルーンにたずねていた。そのたびにルーンは、歌はきらいだと答えた。実際は、歌のすべてがきらいではなかったが、バードが音楽でくつろがせようとしているのが見え見えなだけに、かたくなに拒んだのだ。得体の知れない人物となごんでいる場合ではないと思っていた。  何日もたってから、バードはようやく歌いましょうと言わなくなった。かわりに、和音をつまびきながら、首をかしげてたずねた。 「あなたは、ひまなとき、何をするんです?」 「何も」  ルーンはむっつり答えたが、吟遊詩人はいきなり言った。 「黒のルークがe8とf8、黒のポーンがg7とh7、g8に位置する星を守っているとき、あなたの手が赤のクイーンe6と赤のナイトf7のみだとしたら、次の手はどう攻めます?」  ルーンは思わずまばたきしたが、チェスの盤面《ばんめん》が脳裏に浮かぶと、考えなおすより早く答えていた。 「赤のナイトをh6に進めればダブルチェックがかかる。黒の星はh8へ逃げ、こちらがクイーンをg8に進めれば、隣のルークに取られるが、ナイトがf7にもどってチェックメイトだ」 「やっぱり、一瞬もためらわずにクイーンを犠牲《ぎ せい》にするんですね」  バードはうなずきながら言った。 「常套《じょうとう》だろう、この場合」  ルーンは眉をひそめたが、相手は快活に続けた。 「わたしはチェスが強いんですよ。頭の中でも同じようにプレイできます。でも、あなたは、ボードなしでフル対戦をするのはちょっと困難でしょうね?」 「できるよ」  ルーンは力まずに答えた。挑発《ちょうはつ》されて言っているわけではなく、彼にはわりと簡単にそれができたのだ。視覚的な記憶力のよさは、ルーンが特技とするところだった。 「王立研究所にもできるやつがいた。そんなにめずらしいことじゃないだろう」 「それなら、対戦してみますか。いい気晴らしになりますよ」 (ユーシスみたいなことを言う……)  ルーンはそう思ったが、内心そそられたことは否《いな》めなかった。いやでもこの男と顔をつきあわせて旅を続けるのだから、ゲームで時間をつぶすのは悪くない。それに、彼が「強い」と自慢したことも、競争心をあおった。  それから彼らは、道を歩きながらも、食事をとりながらも、水場を探しながらも、脳裏のチェス盤でチェスをさした。そして、吟遊詩人は宣言したとおり、舌をまくほど強かった。ルーンが最高にうまく進めた手であっても、巻き返して勝利するか、いとも簡単に引き分けにしてしまうのだった。  バードは、わずかも考えこむことなくそれをやってのけた。そして、恐ろしいほどたくさんの定跡《じょうせき》を知っていた。王立研究所のチェス・マスターにも定跡の研究者がいたが、バードの記憶の比ではなかった。  なんとか相手から一勝をと、十日以上|奮闘《ふんとう》したルーンだったが、だんだん、母猫にしっぽの先で遊ばれている子猫のような気がしはじめた。バードにとってはそれほどの片手間、一方のルーンにとっては、どれほど巧みに処理しても、没頭してその他の注意がおろそかになりがちな試合だったのだ。  ある夜、ルーンはふいに気がついた——バードが竪琴をつまびき、チェスのやりとりをしながらも、どれほど冷ややかに自分を観察しているか。表情のあいまいな、ものうげな顔のなかで、淡い色の瞳だけは冷徹《れいてつ》にルーンを見守っていた。  ゲームの途中で、唐突にルーンはたずねた。 「2の2乗のn乗+1は、すべてが素数《そ すう》と言えるか?」  まばたきしてから、バードは答えた。 「言えません。4294967297は641で割りきれるし、18446744073709551617は274177で割りきれます」  ルーンはため息をついた。 「もうチェスはやらない。あんたと能力を競おうなんて、まちがっているよ」 「あ、わかりました?」  悪びれもせずにバードは言った。 「なんなら、もう少しレベルを下げて設定しましょうか? あなたはけっこういい線をいっていますよ」  それには答えず、ルーンはたずねた。 「nが3以上のとき、一つのn乗数《じょうすう》を二つのn乗数の和にわけることは不可能だと証明できるか?」 「ディオファントス解析《かいせき》に興味があるんですか」  バードはやんわりと言った。 「高等整数論がやりたければ、いくらでも王立研究所で研究できたでしょうに。そういう才能をもつ人間は、俗世には目もくれずに取り組むものです。なのに、あなたはあそこに入所までしながら、出てきてしまった」  ルーンは黙りこんだ。  ヘルメス党で一番の数学者は、ヒース・ハミルトンだった。ルーンは彼のアルゴリズムへの情熱に共鳴でき、何度も楽しく議論した。数式の美しさをめざすヒースの研究は、どう見ても異端でも何でもなく、宗教どころか現実社会に関係ないとさえ言えた。ヒースという人物は、貧しい家に生まれ育ち、貴族にかかわって王立研究員に抜擢《ばってき》されることがなかった。それだけだったのだ。 (……純粋数学に善悪はないと、ヒースは言った。善悪は、いつだって人間が何を数えるかによるのだと……) 「あなたには、否定的な感情を数や数式で隠蔽《いんぺい》しようとする傾向があるみたいですね。たとえば恐怖、たとえば憎悪」  読みあげるような口調でバードが言い、ルーンははっとして顔を上げた。 「どうして、そんな……」  それから、薄くほほえんでいるバードを目にして、こぶしを握りしめた。 「それが、あんたのデータ収集なのか」 「あなたはなかなか、興味深いサンプルですよ。ルンペルシュツルツキン」  そっといくつかの和音をつまびいてから、吟遊詩人は言った。 「ちなみに、わたしはnが3以上のとき、一つのn乗数を二つのn乗数にわけることは常に不可能だと証明できます。でも、あなたに証明する気はないです。長くなるし、知って何になるんです」  ルーンはむすっとして答えた。 「知りたいだけだよ」 「知りたいだけ——そのことが、常に人間をわけるのですよ。女神の| 杯 《さかずき》を受けとれる人と受けとれない人に」 「もういい。寝る」  ルーンは乱暴に会話を打ち切り、焚き火を離れて、背中を向けて木の根もとに横になった。腹が立ったし不安も感じ、この夜はこのまま眠れないかと思えたが、実際は、吟遊詩人がまだ竪琴をつまびいているあいだに寝入ってしまった。 (おかしいな……)  ルーンが気がかりに思いはじめたのは、そのことがあってからだった。眠れるはずがないと思ったのに、よく眠った自分を不思議に思ったのだ。  最初は、しばらくぶりに長距離を歩いて、体が疲れているせいだと考えた。だが、メイアンジュリーの郊外まで来て馬を手に入れ、それからは騎乗《きじょう》の旅になったというのに、相変わらずルーンはよく寝ていた。夢一つ見なかった。  都から南に下ってギルビア州を抜け、南方小三国のバーン、トルマリン、カグウェルへ続く街道をたどることは、ルーンには経験済みだ。国境を越えたとたんにがらりと変わる風景も、途中の里のたたずまいや宿のありかも、すでに覚えがある。だが、前回の南方への旅は、思い出したくもない旅だった。  そのころのルーンは、眠れないし食べられなかった。わずかに寝入っては、必ず悪夢に飛び起きた。ハイラグリオンの王宮へしのびこみ、リイズ公爵の暗殺に手を染めてから、まだそれほど日がたっていなかったのだ。リイズ公爵は生前と同じくらい、その死に顔でルーンの悪夢を彩っていた。  そのときルーンを南方へつれだしたのは、ケイン・アーベルだった。リイズ公爵の塔でルーンに出会ったケインは、レアンドラがルーンを隠したアッシャートン州の城に潜入し、ルーンをチェバイアット家から解放した。だが、当時のルーンは、ケインのことも信じられなかった。だれのことも、自分自身すらも、信じることができなかったのだ。  吟遊詩人と国境を越え、南の小国への道をたどりはじめると、いやでもそのころの思い出がよみがえってくる。ケインをふりきり——実際はそうではなかったのだが——一人で旅した数週間は、寝ても覚めても悪夢の中を歩くようだった。他人の親切を受けとることもできず、黒い炎に焼かれ続けているような気分だった。  だから今回、夢も見ずに眠り、朝はすっきりと目覚めることは、幸いだと言うべきなのだが、ルーンは思わず、自分はそこまで変わっただろうかと首をひねるのだった。快調で不安になるのもおかしな話だが、なにか承服できないものがある。  考えてみると、ルーンはほとんど必ず吟遊詩人より先に眠っていた。吟遊詩人はかなりの宵《よい》っぱりで、あれこれ話をしたがり、会話を打ち切るのは常にルーンだったからだ。  ルーンが先に横になっても、バードはしばらくのあいだ竪琴の調弦《ちょうげん》を続けている。ルーンが眠りに引き込まれるときに、その和音が聞こえなかったためしはなかった。 (やっぱり、気になる……)  夜半に目がさめて、バードが眠っているのを目撃したことはあるので、彼も眠らないわけではないのだ。だが、朝も必ずバードのほうが先に起き出していて、火の番のかたわら竪琴をいじっていた。寝顔をさらすのは自分ばかりだと思うと、どこか不利な気がしてならなかった。 (あの和音に、催眠《さいみん》効果があるとは考えられないだろうか……)  確信はなかったが、そう疑いはじめると気が安まらなかった。幾晩か起きていようと試みて、眠気に負けたルーンは、こっそり薬をつかってみることにした。なんでもつっこむ彼のポケットの一つには、ヘルメス党の人々がカグウェルで見つけた、強力な眠気覚ましの薬草があったのだ。  その晩、ルーンが横になって寝入ったふりをしていると、長いあいだ和音をつまびいていた吟遊詩人は、ふいに、ささやくような低い声で言いだした。 「もっと深く眠って——もっと深く呼吸して——今、あなたは自由になり、感情を切り離して旅をしています。つらいこと、悲しいことは何もありません。これは、時間を自在にさかのぼる旅です。あなたはいつのときでも、暦《こよみ》を正確に思い出すことができる。今日は、コンスタンス五十二年の四月二十九日。さあ、何が見えますか——?」  ルーンには、見えるものがすぐにわかった。しみの浮いた灰色の、陰気な六角形の天井だ。忘れもしない、彼が似非《えせ》ヘルメス党につれこまれた唾棄《だき》すべき館でむかえた朝だった。自分がまだ生きていることに気づき、驚いた朝—— 「ぼくに何を言わせたいんだ」  勢いよく起きなおったルーンは、吟遊詩人を見すえて声を荒らげた。 「これはいったい何だ。あんたはこんなふうに、夜な夜なぼくに尋問《じんもん》を仕掛けていたのか」 「おやおや」  あわてる風もなくバードは言った。 「正気で答えてくれるなら、それでもわたしは一向にかまいませんよ。だけど、あなたはいつだって、わたしが満足するほど話してくれないじゃありませんか」 「だからって、他人に話す気のないことを、催眠術を使ってまでしゃべらせるのか」  怒りを抑えられずに、ルーンは体をふるわせた。 「あんたは最初にくぎをさして、ぼくを手玉にとったつもりかもしれないが、どんな勝手をされても我慢する相手だと思ったら大まちがいだぞ。あんたが殺せない人間かどうか、試してみることだってできるんだ」 「たしかにあなたは、試しそうですね」  バードはまじめにうなずいた。けれどもその手は、身の危険を察知した様子もなく、いつまでも竪琴をかなでていた。 「その音をやめろ。そして、答えろ。ぼくから何を聞き出そうとした」  ルーンがぴしりと言うと、彼は素直にひくのを止めた。 「べつに——何という目的はないんです。ただ、身の上全般を語ってもらおうとしただけで。あなたはどうやら、身の上話がつらい人のようだから、もっと気を楽にしてもらってから。とりたてて害はなかったはずですよ」 「ふざけるな。本人の意志のないところで話を聞きだすのは、暴力と同じくらいりっぱな侵害《しんがい》だ。あんたがそれをやめないなら、こちらも手段を選ばすに報復する」  ルーンの声音に脅し以上のものを聞きとったのか、バードはかるく肩をすくめた。 「いやならいいです。抑圧したものを吐き出すことは、精神安定上にも効果があると思ったんですが。あなたはそんなにも、自分の悪夢が大事なんですね」  ルーンは一瞬息をのみ、そうした反応を見せたことを悔しく思った。 「……ぼくが大事なものはぼくが決める。あんたに進んで話そうとは思わないし、どうこうしてもらおうとも思わない」 「そうでしょうか。眠っているあいだに話したがったのは、あなたではないと言い切れるでしょうか。あなたの表層の意識だけが、頑固《がんこ 》にそう信じているのでは?」  吟遊詩人はやんわりと言ったが、その声音は冷たく響いた。ルーンは彼をにらみ、一言ずつに力をこめた。 「そちらが他人をどう呼ぶかは知らないが、勝手に抑制をはずされた自分は、少なくとも『ぼく』じゃない。悪夢がうれしいとはだれも言わないが、それだってぼくの経験だ。あんたには、口をはさめる筋あいじゃない」 「いや、あなたはその悪夢が大切なんです。自分で思っている以上にね」  世間話でもするように、バードは言った。 「そのことを、自分自身からも覆い隠したいと思っている。見たくないものを、内側にたくさん抱えこんでいる——それがあなたという人間ですよ。感情を切断して意識下にとどめておくために、あなたは異常なほど数や知識を偏愛《へんあい》する。わたしは、ヘルメス党で研究に従事する人間たちについて、そういう仮説をたててみたことがあるんです。今のところ、あなたに関して、仮説にまちがいはなかったようですね」      二  ルーンは、この吟遊詩人と旅をすることが累積《るいせき》的に苦痛になるのを感じていた。真綿《ま わた》で首をしめるようにじわじわと、バードの得体の知れない能力がルーンを圧倒しはじめていた。  それでいて、この男があまりにひょうひょうとしていることも、ルーンのいらだちを増した。吟遊詩人の感情のありかは計り知れない。相手をえぐるような言葉を、無邪気な態度で言えるところは、まるで小さい子どものようだったが、それでいて学者のように、感情のありかについて見解をのべた。 「ルーン、脳の構造をどれだけ知っていますか。人間の脳には、右脳と左脳をつなぐ脳梁《のうりょう》という橋があって、これが断絶《だんぜつ》すると、右目の見ているものが左目に伝わらず、左手のすることが右手に伝わらないことが起こり得るんですよ。この橋は、一般に女性のほうが太く発達しています。だから、彼女たちの脳は分業化が起こりにくく、すべての情報や知識に、過剰《かじょう》なくらいの感情を行きわたらせるんです」  ルーンは口の中でつぶやいた。 「自分はどうなんだよ」  耳ざとく聞きつけて吟遊詩人は答えた。 「あなたやわたしは、分業タイプの最たるものですよ。作曲や数学、または空間|把握《は あく》を必要とする感覚能力は、脳の分業で先鋭《せんえい》化するものですから」 「あんたといっしょにしないでくれ」 「そうは言っても、あなたは、フィリエル・ディーよりもずっとわたしに近い人間ですよ。囚人《しゅうじん》のジレンマを知っていますか?」  ルーンは知っているとも知らないとも答えなかったが、バードは無視して、楽しそうに続けた。 「たとえばですね。異端審問官のわたしが、証拠なく告発された二人の異端者を捕らえたとします。わたしは彼らを別々の監房《かんぼう》に入れ、二人に自白を迫ります。しかし、証拠を得ていないので、どちらも口を閉ざして認めなければ、わたしは釈放せざるをえないわけです。だから、それぞれに取り引きをもちかけます。もう一人の罪を告白したなら、釈放した上に報奨《ほうしょう》金を出そうと。そして、もしも、口を閉ざしたまま相手に告発された場合は、投獄した上に懲罰《ちょうばつ》金を課そうと。あなたが一方の囚人だったら、どうします?」  彼はルーンの顔をうかがうように見たが、やはり返事が得られないので、さらに続けた。 「この二人には、話し合いのチャンスを与えません。疑心暗鬼《ぎ しんあんき 》になるしかないのです。結果はどうなります? 口をつぐんで相手に裏切られるよりは、自白するほうがリスクが低いと計算するでしょう。それなら、相手が黙っていたらしめたものだし、たとえ相手が自白しても、懲罰金まで課される最悪はまぬがれる。かくして、二人ともに相手を裏切って牢屋に居続けるわけです。本当なら、信頼がお互いを釈放する道であってもね」  しばらくしてから、ルーンはぶっきらぼうに告げた。 「フィリエルは、確率を計算しないで相手を信頼する人間だ。ぼくは違う。そう言いたいんだろう」 「ルーン、生物が生き残るということは、この選択の絶え間ないくり返しだと思いませんか。協調か離反《り はん》かを、何度となく迫られる。そこでですね、今の囚人の選択を、一個体が二百回までくり返すとします。相手を裏切り続けることも、信頼し続けることも、相手の出方で次の手を変えることも可能だとして、二百回後に最も成功率の高い組み合わせは何だと思いますか?」  ルーンは眉をひそめた。 「……そんな確率の計算は膨大すぎる」 「わたしにはできます」  落ち着きはらってバードは言った。 「もちろん、相手を信頼し続ける個体は成功しません。しかし、裏切り続ける個体も成功しないんですよ。これだけは言えるんです。生き残りの可能性の高い個体プログラムは、すべて最初の一回に信頼を選んだものです。そして、相手に裏切られて初めて、自分も裏切りを発動する」  いぶかしげにバードを見上げて、ルーンは自信なく口にした。 「統計で証明できるのか……くり返せば信頼のほうが強いことが……?」 「これが、われわれがアメーバでない理由ですよ」 「アメーバ?」 「百歩ゆずって、ミジンコにしておきましょう」  吟遊詩人は、少々ゆがんだほほえみを見せた。 「ところで、あなたは自分を、生き残る個体プログラムだと考えますか、ルーン?」  ルーンは、吟遊詩人にあの手この手で果てしなく試されることがわかっていたが、旅を続ける以上は逃れるすべがなかった。  吟遊詩人は不思議な知識をあれこれ披露したが、そのふいを突く持ち出し方は、思いもよらない場所からメジャーを取り出して、ルーンを測定しようとするようで、ひどく神経にさわった。  さらに不愉快なのは、その話題のほとんどが、ルーン自身の暗い面に目を向けさせようとすることだった。そのせいか、舞いもどってきた悪夢は以前よりひどいものになっていた。  バードに「あなたはその悪夢が大事だ」と言われたことも、ルーンの身にこたえていた。もう一度夢を取り除いてほしいとは、口が裂けても言えなかった。寝不足が体に影響し始めると、以前そうだったように、寝ても覚めても、死相の浮かんだ公爵の顔がちらつくような気がしてきた。  すると、並行して周囲に小さな事故が続出するようになってきた。注意が散漫《さんまん》なせいだと自分をいましめるものの、すでにカグウェル奥地の森林域にかかっており、何が起きてもおかしくないところはあった。  南国に繁茂《はんも 》する森のからみあう枝の奇怪さ、そこに生まれる濃密《のうみつ》な闇のありかには、死霊《しりょう》がさまよって当然に思えるところがある。一方、生きた竜に出くわす恐れも、日に日に増していた。  ケイロンから南の地域は、一時期多くの竜が闊歩《かっぽ 》したことから立ち直っていなかった。竜の爪跡がそこここにあり、馬は怯《おび》えて使いものにならず、ルーンたちも今では再び徒歩旅行だった。  いつでも使えるように、竜を逃走させるバクダンの数個をポケットに探りながら、前回はこのあたりでフィリエルに再会したことを、ルーンはしみじみ思い返していた。  あのころ、すでにケインと和解していたとはいえ、悪夢はまだルーンを追いかけていた。けれども、フィリエルの顔を見てからは消え去った。彼女には、死霊をものともしない輝きと強さがあったのだ。 (……と、いうか、フィリエルに会ったら、何かとあわただしくて、夢もおちおち見ていられなかったんだ……)  幼体のユニコーンがついてくるわ、ユーシスと話し合う目にあうわ、イグレインに剣でつつかれるわ。あげくのはてに、フィリエルは果ての壁の直下で| 幻 《まぼろし》のように消えてしまい、ルーンに悪夢も比較にならない思いを味わわせたのだった。  だが、今は、公爵の夢を追い払ってくれる人はいない。吟遊詩人は、ルーンがだんだん食べなくなるのを知って、からかうように言った。 「何があなたを、そうまでして壁に向かわせるのでしょうね。わたしから離れて引き返せば楽なのに。そうですね、見上げた執念《しゅうねん》であることは認めます。しかし、知識欲とは権力欲の一形態です。知りたいと願うことは、支配したいと願うことに通じる。どんなにきれいごとを並べても、ヘルメス党もまた権力ゲームの一手であることは自明なのですよ」 「あんたを相手に、きれいごとなど言うもんか」  かすれた声で、ルーンは反駁《はんぱく》した。 「知識は力だ。だからあんたは狩るんだろう。女王の秘密を知った人間を」 「これはゲームですよ。選択のゲーム。わたしは、グラールの生きのこりに貢献《こうけん》しなければならないからこそ、二者択一をするんです」  ここ十日ほどで、すっかりげっそりして見えるルーンを見つめながら、相変わらずのしわの少ない顔でバードは述べた。 「しかし、選択にはデータが必要です。ギディオン・ディーは危険度の高い偏向《へんこう》の持ち主でしたが、まだ見守る余地があった。この種の人物に関する情報が足りないこともたしかでした。しかし、その血がフィリエル・ディーに流れ込んでいるからには、これ以上の偏向は危険すぎます」  ルーンは、最初のころにあったバードのためらう口調が、今ではすっかり消えていることに気づいた。判定をのべる調子で彼は語った。 「あなたは今でも、興味深いサンプルですよ。知恵や知識は、わたしにとって問題にならないことはおわかりでしょう。ですが、あなたには持久力もあるし、忍耐力もある。見かけのわりには身体能力もある。少しテストしましたが、あなたは意外とけがをしませんでしたからね。勇気もあるし、判断力もある。それだけに、つくづくあなたのもつ修復不能の傷が残念です」  バードの色の薄い目が、感情をまじえずにルーンの目をのぞきこんでいた。 「その傷を、あなたはそうとう幼いころに負っている。だから今となっては、人格から取りのぞけないものなのです。大もとに傷があるから、あなたは絶えず| 邪 《よこしま》なものを引き寄せてしまう。最近までの一連の不幸の要因を、自分自身で生み出してしまうのですよ」  その夜半、眠れないままに暗い木立を見上げていたルーンは、今こそはっきりわかると考えた——吟遊詩人が、彼を女王候補のそばにおける人物として許容《きょよう》する可能性は、一パーセントもないということが。 (最初から、バードは手紙に書いていたじゃないか。最終的にはぼくを殺すと。だから、今さらがっかりすることじゃないんだ……)  しかし、ルーンは死ぬわけにはいかなかった。彼の胸元には、フィリエルの青い女王試金石がある。これを彼女に返さずに、カグウェルの土になってしまうわけにはいかない。 (死にたくなければ……先に殺《や》らなければならない……)  梢《こずえ》の暗闇に、リイズ公爵が死相を浮かべて浮かんでいた。青白くかすかに光を放ち、目に映るのか想像しているだけなのか、わかりかねるほどだった。  どうしてこれほどくり返し、自分は公爵暗殺の場面に立ち返るのか、ルーンは不思議だと思っていた。どうして公爵が、死んだあとまでいつまでも自分を解放しないのか。  けれどもこの夜、ルーンはとうとう理解した。彼は、リイズ公爵を殺したことを後悔しているのではなかった。もうこれ以上彼を殺せないことに、いつまでもとらわれているのだ。 (……自分の手でとどめを刺したかった。この手で完全に報復できなかった。だからなんだ……)  ルーンはレアンドラに与えられた長針を使ったが、とどめを刺したのはケインだった。当初は動揺のあまり、自分で殺したと信じたが、犯行現場から逃げのび、正気にもどって考えてみるとそうだった。そして、悪夢が始まったのだ。  気がついてみれば、簡単にわかることだった。彼の内部には、殺意と憎悪があふれんばかりにたたえられている。息の根を止めなかったことが悔しいあまり、今日までリイズ公爵を引きずったのだ。 (殺《や》られる前に殺れ。それが鉄則だったのに……)  ルーンは起きなおり、吟遊詩人を見た。動悸が急に高まったが、再び徐々に収まった。バードは完全に横にならず、木の幹に頭をもたせかけていた。しかし、それでもたしかに眠っている。深い息づかいが、かすかだがしじまに伝わってきた。  ルーンは、自分がひどく冷静に、わずかな憐れみもこめずに考えていることを知った。 (今度はへまをしない……必ずしとめてみせる。生きて帰る道がそれしかないなら、ぼくには何だってすることができる……)  それは古い古い教えだった。その教えをたたきこまれて、育ての親から引き離された最初の数年間を、ルーンは生きのびてきたのだった。  それでも、ルーンが夜のあいだに決行しなかったのは、世界の果ての壁にたどりつく望みを、まだわずかに抱えていたせいだった。しかし、〈殺られる前に殺れ〉という古い教えに目覚めた今は、長くは保たなかった。  朝の光はそれほど問題にならなかった。相手のふいをつくことで、いつでも殺人はかなう。そして、バードにはその方面の警戒心がまるでなかった。  ケインを見れば、彼が鍛錬《たんれん》を重ねて、わずかな殺気も察知できるようになっていることがわかる。彼の反撃の構えは、無意識にもとれる域に達している。けれどもバードは、命が惜しくないと思えるほどに隙だらけだった。  朝食を食べ終えたバードは、立ち上がって伸びをし、薄青い南の空を見やった。 「果ての壁がずいぶん近くなりましたね。もう、気配が感じられる。敏感な動物は、この気配を感じただけで近寄らないものですよ」 「壁はほとんど消えていると、あんたは言っていなかったか?」  吟遊詩人の背中を見ながら、ルーンはつとめてさりげない声を出した。けれどもその手は、服の下に隠した武器に伸びていった。ケインが投げるのに使う、細身だが充分|鋭利《えいり 》なナイフだ。  バードはのんびり答えた。 「そんなことを言った覚えはありませんよ。壁は自己修復します。それに、消失がすなわち存在しないことにはなりませんし」 「ぼくに見えない壁を見せて、どうするつもりだった?」 「目的地を選んだのはあなたです。わたしはただ、日数をかけて、あなたにつきあってみたかっただけで」 「それなら、果ての壁の秘密をぼくに明かすつもりは、最初からなかったんだろう」  ルーンが言うと、それまで空を見上げていたバードは、あきれてふり向こうとした。 「だれが、あなたに秘密を明かすと——」  だが、最後まで言うことはできなかった。それよりも早く、ルーンが突進していた。  体当たりと同時に、鋼《はがね》の刃は吟遊詩人の胸に深々ともぐりこんだ。その手ごたえを感じた瞬間、ルーンは、梢を襲う突風のように、喪失《そうしつ》感《かん》とも痛恨《つうこん》ともつかない悲哀《ひ あい》が体をつき抜けるのがわかった。  まざまざと記憶していたはずなのに、ルーンは自分をゆるがすこの衝動を忘れていた。息をつめ、目を閉じたい思いにかられながら、その一瞬が通り過ぎるのを待つしかなかった。  ものの数秒、吟遊詩人は凍りついたように身じろぎをしなかった。それから、ため息をつくように息を吐き、平静な声で言った。 「やれやれ……とうとうやってくれましたね。生きのびる個体は、先に手を出さないものだと、あれほど言っておいたのに」  ルーンは飛びのき、左胸にナイフの柄を立てたまましゃべっているバードを、信じられずに見やった。 「あんたは——本当に……死なないのか」 「いいえ、心臓を刺されたら、この体もだめになります。ですが、痛覚《つうかく》は意志で遮断《しゃだん》できるし、出血もしばらくは抑えられるので、もうひと仕事くらいできるでしょう」  バードが歩き出したので、ルーンはさらに後ずさった。柄の周囲に血をにじませながら平然と動く男に、今こそ恐怖を感じはじめていた。バードは身をかがめて、竪琴をとりあげた。 「ルンペルシュツルツキン、あなたには他人が信じられず、自分自身を愛することもない。そういう人間は、能力があればあるほど悪党になるしかないんです。自分が小悪党だということを、とうとう証明してしまいましたね」  ルーンは一瞬くちびるをかんだが、言い返さずにいられなかった。 「そういうあんたは、自分が悪党でないとだれかに証明できるのか。あんたは全能なんかじゃない。楽園に住む星女神ではなく、その御子《みこ》でもないくせに。他人をそれほど決めつける権利が、いったいどこにあるんだ」 「あいにくですが、わたしが審判者です」  バードは動じる様子がなかった。 「この体は、更新してからまだ間がなかったのに。補充がきくとはいえ、パーツの更新には代価がかかるんですよ。けっこう高額になるその代価は、グラール国から支払われます。ですから女王は、わたしの体を直接そこなった人間に限り、報復を許しています」  竪琴をかかえた吟遊詩人は、語るように続けた。 「〈やられたらやりかえす〉が、生きのこりの最強プログラムなのです。あなたが学べなかったことは、気の毒といえば気の毒ですが、幼少時に虐待《ぎゃくたい》を受けた者は、長《ちょう》じて虐待を与える人間になる。暴力は連鎖《れんさ 》するものです。被虐《ひぎゃく》と加虐《かぎゃく》は、経験においてそれほど差がないものです。今では、納得できるでしょう?」  ルーンは青ざめながら、必死で相手をにらんだ。 「そうだ、ぼくには経験がある。だからこそ、簡単に殺されはしない」 「そうでしょうか」  バードは竪琴の弦《げん》を何本かつまびいた。それはいつもの音色ではなく、不快な不協和音だった。体の奥がよじれるようなその音を聞いたとたん、ルーンは身動きができないことに気づいた。どんな拘束《こうそく》もされていないのに、足は根がはえたように動かない。 「あなたのデータは、充分にとりました」  吟遊詩人は静かに宣言した。まさに、死の宣告《せんこく》と同じ響きがあった。ルーンは、自分にふれるほど近くに、突き立ったナイフの柄が寄ってくるのを見つめ、身をふるわせた。  吟遊詩人はふいに手を伸ばし、こわばったルーンのほおをなでた。 「あなたは、記憶をすべて空白にしてしまったほうが、よい人間になっていたかもしれませんね。このボディを、次の御使《み つか》いにする手もあったはずなのですが、惜しいことです。まあ、報復は報復です。時間もないことですし、このまま、あなたのナイフをお返ししましょう」  ルーンは、吟遊詩人が眉一つ動かさず、自分の胸のナイフを引き抜くのを見た。さらに相手は、血にまみれたそのナイフを持ち替え、ルーンに向けた。あまりの異様さに、ルーンは目をつぶるのも忘れて彼の赤い傷口を見つめた。  だが、最後の一瞬にルーンの体は動いていた。自分で意図したこととも思えなかったが、ナイフの切っ先が達する前に、バードから飛び離れていたのだ。 「おや、これほど暗示にかかりにくいとは。気軽に他人のいのちを奪う人間にしては、生き汚くありませんか?」  バードがつぶやくのが聞こえた。もちろんルーンは、相手をするほど愚かではなかった。背を向けていっさんに逃げ出していた。  バードはさらに一人でつぶやいた。 「なるべく、派手なことはしたくなかったんですが。こうなったらしかたありませんね……」  白い閃光《せんこう》に目がくらみ、体を何か熱いものがかすめた。草地のくぼみに足をとられて、ルーンはもんどりうってころがった。そして、頭を上げたとたん、自分のかたわらの地面が一フィートほどの半径に切りとられ、草もない真っ黒な土と化して、白い煙をたてているのが見えた。 (何だ……?)  わけがわからないまま再び走り出したとき、今度は前方に、落雷《らくらい》に似た光を見た。直撃を受けた一本の木が一瞬にして白い煙になり、空にのぼって消え失せた。 (これが、バードを殺したむくいなのか……)  とっさに方向を変えようとして、横すべりにまたころがったルーンは、戦慄《せんりつ》せずにはいられなかった。天から降ってくる白い怒り——これこそは、憤怒《ふんぬ 》の形相をした星女神の怒りだった。  起き上がることもできないうちに、三度目の怒りが舞い降りた。もはやルーンは頭をかかえることしかできなかったが、気がつくと、まだ直撃されていなかった。彼の体からわずか数インチほど離れて、黒こげの地面は終わっていた。 「何をしている。腰が抜けたか」  よく響く、澄んだ強い声がルーンを打った。かろうじてふりかえると、紫のユニコーンに騎乗した人物が、金のたてがみと銀の角をふりたてる騎獣をなだめながら、巧みにたづなを繰っていた。 「逃げろ、乗れ。この場を少しでも離れるんだ」  態度にも剛胆《ごうたん》さにも、騎士ユーシスに似た風格があったが、差し出された革手袋の手はすんなりと細く、声も女性のものだった。その瞳は黒く輝き、光にみちた髪は銀色。レアンドラ・チェバイアットがルーンの目の前にいた。 「ど——」  どうしてとたずねている暇はなかった。レアンドラが力強い腕でルーンを鞍《くら》の上まで引っぱり上げると、ユニコーンは一瞬前脚をふりあげ、風をきって走り出した。      三  森一つ走り抜けるほどの距離を走ってから、レアンドラはようやくユニコーンの足並みをゆるませた。 「このへんで、モードレッドを少し休ませよう。降りたまえ」  この日のレアンドラは、南方では平均的な茶色の兵服を着こみ、ごくかまわない身なりをしていた。長い髪も編み上げず、ねじって簡単にまとめただけなので、ユニコーンの早駆けに、まげからたくさんの髪がこぼれ落ちてしまっている。だが、銀色のおくれ毛が顔のまわりにただよう風情には、かえって人目をひくものがあった。  しかし、ルーンはすっかり気分が悪くなっていて、レアンドラのおくれ毛に見とれるどころではなかった。ユニコーンから降りたルーンが、よろめきながらまっ先にしたことは、茂みに入りこんで吐くことだった。  時間をかけても、吐き気はとまらないような気がした。吟遊詩人の胸に開いた傷口や、ナイフを刺したときの感触が何度でもよみがえり、体の奥で、竪琴の不協和音がいつまでも鳴っている気分だった。  ようやくのことで体を起こし、茂みからもどってみると、ユニコーンを木につないだレアンドラは、ひざにほおづえをついて待っていた。 「青息吐息《あおいきと いき》のありさまだな。バードは君に何をした?」  ルーンは倒れこむように腰をおろした。何も考えたくないほど、ふらふらになっていた。 「文句は言えない……先に殺す決心をしたのは、ぼくのほうだから」 「殺せると思ったの? バードのことを?」  目をみはって、レアンドラはたずねた。 「だいそれた刺客《し かく》もいたものだ。ハイラグリオンの手だれであっても、あの男のことは避けてまわるよ。あの男は、何度死んでも必ずもどってくる。そういうものだと聞いている」 「それなら、今度ももどってくるんだろう。ぼくに報復するために……」  ルーンはつぶやいた。今は恐ろしいと思わず、投げやりに、どうでもいいような気がしていた。 「わたくしといっしょにいれば、少なくとも空からの報復は逃れられるよ。まがりなりにもあの男は、女王陛下の御使いだ。たぶん、女王候補の保護は優先事項になるはずだから」  レアンドラはこともなげに言った。ルーンは力なく彼女を見つめた。 「なぜ、あんなところにいたんです」 「ごあいさつだね。君を救い出す以外に何がある。だいたいわたくしは、これが初めての君の恩人ではないはずだよ。それなのに、考えてみれば、一度だってお礼を言われたためしがないようだ」  ルーンは小声で言った。 「それは、ぼくが、悪党だからでしょう……」  何を思ったか、レアンドラは気の利いたことを聞かされたように笑った。そして、生き生きと言った。 「わたくしは、悪党が好きだよ。悪党ならば、取り引きができる。ねえ、わたくしがバードの手から君を守ってやったら、君は何をくれる?」  しばらく黙ってから、ルーンはぽつりと言った。 「データがない」 「なにそれ」 「あなたが、どうしてここにいたのか、データがないんだ……」  ルーンには、目を開けている気力もすでになく、木の幹にもたれかかっていた。わずかののちに気がつくと、ひんやりした手が額にあてがわれていた。 「やっぱり発熱している。君は、体力気力、底をついているように見えるぞ」  めったにないやさしい声で、レアンドラが言っていた。 「しばらく横になるといい。バードがすぐにやってくるとは思わないが、番をしていてやるから。気を楽にして、少し眠ってごらん」  慈愛《じ あい》の聖母《せいぼ 》じみた声の出せるレアンドラのせいか、ルーンは悪夢を見なかった。夕方まで眠って目をさましたときには、かなり気分がましになっていた。  ルーンは起きあがり、敷かれた毛布の品のよいことに目をとめてから、あたりを見回した。すると、そばの小さな空き地で、レアンドラが食事を作ろうと奮闘努力《ふんとうどりょく》していた。  彼女が火にかけたり、あたりに置いたりしているものを見れば、野営に必要な一式がそろい、食糧も豊富にあるようだった。ユニコーンが全部持ってきたとは思えないから、ここには備蓄《び ちく》が置いてあったにちがいない。 (初めから彼女は、この場所へ来るつもりだったみたいだ……)  ルーンはうさんくさく思ったが、料理の匂いがしてくるのは悪くなかった。吐き気はおさまっており、まだ本当の食欲はわかなかったものの、バード以外の人物と食事をする行為に、いくぶんのやすらぎを感じたのだ。  ところが、レアンドラの料理の腕前は、フィリエルに負けずに怪しげであるようだった。彼女がタマネギをいつまでもいじっているあいだに、鍋の匂いはどんどん焦げくさくなっていく。たまらずにルーンは歩み寄った。 「かしてください。ぼくのほうが効率がいい」  ルーンが鍋をおろし、タマネギを刻みだすのを見て、レアンドラはまばたきした。 「君、料理上手なの? そうは見えなかったが」 「ましだという程度です。言っておくけれど、香辛料は入れませんよ」 「ん、まかせる」  おうように言い、レアンドラはうれしそうに道具を手放した。 「やりつけないことをするものじゃないな。じつをいうと、たいてい人にやってもらっていた」 「そういうあなたが、どうして一人でカグウェルの森にいるんです」  ルーンがたずねると、レアンドラは得意気に答えた。 「わたくしはこのところ、よくカグウェルに調査に来るのだ。ブリギオン軍の通った道筋がどうなったか知りたいし、世界の果ての壁にも興味をひかれるしね。君とここで出会ったのは、たまたまだったよ」  ルーンはしばらく調理を続けたが、スープが煮立ってから言った。 「それにしては、ここにある器具は使い込んでいない……というか、新品だ。この野営地はいったい、いつからできたんです」 「そんなことが、どうして気になるの?」  レアンドラはからかう口調で問い返した。 「わたくしが君を、危機一髪で救い出した運命的な出会いが、そんなにも気にくわない?」  からかわれると、すぐにむっとするルーンは、眉をひそめた。 「あなたが、供もつれずにぼくの前に現れるときは、いつだってたくらみのあるときでした」 「おや、ふーん。そういえばそうだっけ」  初めてふりかえったらしく、彼女は感心した声を出した。  ルーンのつくったスープは、いちおうは料理のていをなしていたが、彼自身に食欲がないことを反映して、味がいいとは言いがたかった。ひと口食べたレアンドラは顔をしかめた。 「けっこうひどいぞ、これは。ぶきっちょなマーカスの作る料理でも、これよりは出来がいい」  ルーンは黙って、塩とコショウの容器をレアンドラにさしだした。  食後、レアンドラは口なおしだと言って、どこからか甘いぶどう酒の瓶を取り出し、ぐいぐい飲んでいた。ルーンは仲間にならなかったが、食べたものが無事に胃におちつくと、多少気持ちがなごむのを覚えた。レアンドラに言ってみた。 「もう、何があっても驚かないから言ってください。どうしてあなたは、ぼくがここにいることを知っていたんです」 「そんなに知りたい?」  レアンドラはくちびるをまげて、なまめかしくほほえんだ。正直にはものを言いそうにない顔だ。 「それでは、教えてあげる。わたくしが女王試金石をもっているからだよ」  革手袋を脱いで、彼女は左手の指に光る青い石をかざして見せた。 「その石が、ぼくの居場所を教えるとでも?」 「まあね。これは女王家の秘中の秘。けれども、わたくしには、君の居場所がわかるの」  ルーンはしばらく考えた。 「……もしも、バードとつれだってカグウェルにやってきたのがフィリエルだったら、あなたはやっぱり、いそいそと出かけてくるんですか?」 「そんなことはない。わたくしが興味をもっているのは、彼女ではなく君だもの」  レアンドラの踊る瞳を、ルーンはにらんだ。 「それならやっぱり、あなたはぼくが来ることを聞き知っていたんだ。フィリエルの女王試金石が彼女の手もとにないことを、知っているのはフィリエルとぼくだけです」 「おやおや。これはわたくしの切り札だと思っていたのに」  機嫌よく笑い声をあげてレアンドラは言った。 「いかにもそのとおりと言えば、君は満足する? 君がバードとカグウェルに向かったと、わたくしは子猫ちゃんからじきじきに教わったのだよ。彼女から来た手紙を読んで、こうしていそいそと出かけてきたわけだ」  言い当てておきながらも、ルーンは困惑を隠しきれなかった。 「……フィリエルが、なぜ……」 「さあね、わたくしにも、あの子が利口なのかおばかなのかはわからない。ライバルに君をゆだねようというのだから。もっとも、彼女の認識が甘いだけかもしれないけれど」  レアンドラは後頭部に手をやり、まげを止めていた髪どめを抜きとった。そして、頭をふってくすくす笑った。 「わたくしが、今でもどれほど君を手に入れたいと思っているか、わかっていないなら愚《おろ》かというものだ。これほどのチャンスに、わたくしが実力行使をしないとでも思う? どう考えても、フィリエルは君の所有権を放棄している。ちがう?」 「ぼくは、だれにも所有なんかされていない」  ルーンはむきになったが、どうやら逆効果だった。レアンドラは、思わせぶりにまばたいて長い髪を指ですいた。 「そう、それなら、君の獲得《かくとく》をフィリエルに遠慮する必要もないのだろう。もともと、ルールの存在しない女王家にルール違反などないのだから。誘惑《ゆうわく》するのはわたくしの勝手、子猫ちゃんから遠く見えないこの場所で、陥落《かんらく》するのも君の勝手だ」  急にルーンは、疲弊《ひ へい》した気分に襲われた。これを、一難《いちなん》去ってまた一難と呼ぶべきかどうかわからなかったが、異端審問官と同程度にやっかいなのは明らかだった。 「どうしたの、浮かない顔をして。レアンドラがやさしくしてあげようというときに、そんなに暗い顔をするものではないよ」  銀色の髪を下ろした彼女は、ルーンのそばまで来てひざを折り、首をかしげた。そうした様子は妖艶《ようえん》というよりも、あどけなく少女めいていて、心打たれるほどやさしげだった。ルーンは彼女を見つめたが、黒い瞳の磁力にとらわれる前に目を伏せた。 「……あなたは、他人のものを取り上げてみたいだけなんだ。そうでなければ、どうしてぼくなんかに、いつまでもこだわるんです」 「これはまた、自己評価の低い。君は本気でそう思っているの?」  レアンドラはおかしそうにたずねた。 「吟遊詩人が、修復不能と宣告しましたよ。ぼくは白紙にもどしたほうが、いい人間になれるそうです」  ルーンはつぶやくように言った。それから、ひと呼吸おいて続けた。 「……ぼくにも、それは、わかっていたことだった。たぶん、フィリエルにも。たぶん、ルーシファーにも」 「ルーシファー?」 「フィリエルの育てたユニコーンです」  レアンドラは、つないである紫のモードレッドを見やった。 「お説は拝聴《はいちょう》するが、ユニコーンはあんまり利口でない生き物だよ。どちらかというと鈍感だから、竜にも壁にも無神経に近づくことができるのだ」 「だったら、ルーシファーがぼくを近づけないのは、フィリエルの気持ちを反映しているんだ……」 「フィリエルに、拒絶《きょぜつ》されているの?」  レアンドラの質問に、ルーンは答えなかった。レアンドラは、黙ってうつむくルーンをしばらく見つめてから、息がかかるほど顔を寄せてささやいた。 「ははーん。フィリエルが君をどうでもいいと思っていると知って、落ち込んでいるね。でも、事実そのとおりなのだよ。彼女のしてあげないことを、わたくしが君にしてあげても、彼女はけっして感知《かんち 》しないということ。だから、ゆだねられた君も、この際観念したら? わたくしは、君を大事に思ってあげるよ」  ルーンは片側に顔をそむけただけだった。レアンドラに反発するだけの力はなかったが、安易になぐさめてほしいとも思っていなかった。  レアンドラはしばらくのあいだ、ルーンの耳もとに息をかよわせていたが、やがて、彼が反応しないことを見てとると、小さな子どもにするようにルーンの頭をなでた。 「そんなにしょげる必要はないのに。今日の君は落ち込みすぎて、わたくしの魅力も届かないようだ。バードが何を言ったか知らないが、わたくしは君の影の部分にこそ心ひかれているのに。でも、今のところは、それを言っても聞く耳をもたないだろうね。だから、今日はこれで許してあげよう。血も涙もないとは思われたくないから」  レアンドラはルーンの髪にかるく口づけると、引き下がって焚き火の向こう側に座った。そして、再び髪をまとめはじめた。  翌朝、ルーンのスープの残りに、もう少し塩とコショウを足して朝食の代用にした後、レアンドラは言った。 「ここにじっとしているわけにはいかない。バードには見えない場所にいる者をサーチする能力があるし、バード以外の者に見つかる可能性もある」 「バード以外の者?」  思わずルーンがたずねると、レアンドラは肩をすくめた。 「女王陛下の御使いが、命令を下せる人間は多い。天上の瞳でなくとも、ただの兵士に見つかる危険だってあるのだよ。もっとも、モードレッドさえいれば、難なく逃げきることはできるが。まだまだユニコーンは稀少《きしょう》で、相手はたいてい徒歩だから」  そう言われても、ルーンには、もう一度レアンドラの後ろに乗ることにはためらいがあった。レアンドラが誘惑を公言している以上、ついていくだけで、半ば承諾したも同じなのではないだろうか。  彼の迷いを見てとって、レアンドラは意地悪くほほえんだ。 「生き残りたくないの? 今の君が生きのびる手段は、わたくしのそばを離れないこと、それしかないのだよ」  たしかに、そのとおりだった。フィリエルのもとへ生きて帰りたければ、こちらの危険にあえて身をさらさなければならなかった——フィリエルに、許されるかどうかは別として。 「そうそう、賢明だ」  ルーンが彼女の後ろでユニコーンにまたがるのを見やって、満足げにレアンドラは言った。 「君はやっぱり、わたくしが見込んだとおりの人物だよ。悪党にはものごとを割り切ることができる。合理的にものを見る目を養うことを、北部の人間は、不義理とか言いたてるそうだけど」  ルーンは小声で言った。 「ユーシスなら、たしかにいさぎよしとしないでしょう」 「ロウランド家の若君が気になる? 彼は事実、北部を体現している人間だけど」  楽しげにレアンドラは続けた。 「彼は、だれにとっても好ましい外見と好ましい性質をそなえている。わたくしもそれを認める。けれども、ねやをともにするほどの間柄になれば、きっとわたくしは、彼と気が合わないよ。彼の子はたぶん優秀だろうから、産むことに興味がないわけではないけれど」  ルーンは彼女のあけすけな話しぶりに、かなり閉口したのだが、顔を見合わせているわけではないので、レアンドラは少しも気にしないようだった。 「外見は大事だ。わたくしの父親は、死ぬほどの美貌《び ぼう》で、死ぬほどの女ったらしだったそうだ。結局、重婚罪《じゅうこんざい》で追放されたが、オーガスタ王女はどうみても、容姿《ようし 》だけで男を選んでいるな。だが、おかげでもたらされたわたくしの外見は、けっこう役に立つ。そうは思わないか?」  ルーンは口ごもりながらも、思うと答えた。レアンドラの冷たく突き放した口調は、美貌を鼻にかける女性の言とは、少しちがうように聞こえたのだ。 「そうだな——自分を磨くことが、わたくしは得意だ。適性を伸ばしてみたら、トーラス女学校の誘惑の授業で、わたくしの右に出るものはいないと、シスター・ナオミも太鼓判をおしてくれた。父方の血だろうな。だから、ときどきうんざりする」  ルーンは黙っていたが、レアンドラはいくらかものうく言葉を続けた。 「持って生まれたものがあれば、ほんのちょっとの努力でいくらでも人々を引き寄せられる。わたくしは、若さをむだにする気はないが、たとえ若さを失っても、同じことができるという自信があるよ。だが、大量に人々をひきつけることは、一人もひきつけないのと実質はほとんど変わらないのだ」 「……そうは見えませんが」  ルーンがようやく言うと、レアンドラの背中が笑いに揺れた。 「わずらわしさの点から言えば、後者は前者の比ではないな。だが、わたくしは、父だった人の心境がわかるような気がするのだよ。あまりに多くの人間から同じことを言われると、その誠意を疑いたくなるのだ。と、いうより、その誠意に関心がなくなるのだな。はっきり言って、飽きるのだ」 「ぜいたくですよ」 「まあな。たしかにわたくしは、ぜいたくに育てられている」  てらいなくレアンドラは認めた。 「チェバイアット家の養父母は、わたくしを、最高級のものだけで囲んで育てた。口に入れるものも着るものも、住居も使用人も。だから、言っておくけれど、わたくしの舌はこえているのだよ、ルーン。それが何だという気はするけれどね。習いごとにも、一流の師匠《ししょう》たちが選ばれた。暇な貴族が思いつくひととおりの技芸《ぎ げい》を、わたくしはこなすことができる。東方の後宮へ行けば、さぞかし高値がつくぞ」  金の尻尾《しっぽ 》をふりたてるモードレッドは、二人乗りを苦にする様子もなく、軽快な足どりで進んでいく。そのたづなを繰るレアンドラの手つきは安定して、まったく危なげがなかった。馬術の師匠も一流だったのだろうと、ルーンはこっそり考えた。  だが、南部一のぜいたくに包まれた優雅で美しい姫君が、どうして竜騎士顔負けのふるまいをし、一軍を指揮する戦闘的な女性に育ったのか、まだまだルーンには理解できなかった。  森に入り、森を抜けて、レアンドラはなるべく竜の道に入らないようにしながら、東の方角へモードレッドを向けていた。だが、丘や湿地に苦労せずに通れるのは、やはり竜たちが踏みならした場所だったので、ときどきは草原となった竜の道を通ることになった。  密生《みっせい》した木立を抜けて、そうした草原へ出たときだった。レアンドラは唐突にたづなを引いた。前方には、ひとかたまりになった武装した男たちが待ちかまえていた。間近ではなかったが、お互い、相手に気づくには充分な距離だ。  スミレの花のように鮮やかなユニコーンは、たちまち兵士に見とがめられた。一人が大声で叫ぶのが聞こえた。 「見つけたぞ、あそこにいる」  男たちがわらわらと走り出すのを見て、レアンドラはひるんだ。 「これはまずい。引き返すぞ」  モードレッドは、たちまち彼らに尻尾を向け、もと来たほうへ駆け出した。兵士たちは全員が徒歩であり、追いつかれる危険はない。だが、飛び道具が飛んでくる可能性はあり、ルーンは何度も後ろをふり返った。そして、叫ぶ声を耳にした。 「お待ちください、姫。なぜ、このわれわれをさしおき——お待ちください」  レアンドラが小さく毒づくのがわかった。ルーンはなんとなく様相がつかめたと思ったが、ユニコーンが飛ばしているあいだは、舌をかみそうで黙っていた。  やがて、とうとうレアンドラが速度をゆるめてため息をついた。 「ああ、わずらわしい……」 「あなたは、あの男たちから逃げていたんですか」  ルーンはやや恨《うら》みがましく言った。 「あの連中、バードと無関係だったりしませんか? ぼくにはそう思わせようとしたようだけど」 「それがどうした。わたくしは君と、サシで話をしたかっただけだよ。求婚者《きゅうこんしゃ》にはばまれながらでは、たいした話もできなかろう?」  レアンドラは顔をしかめ、頭皮をかいた。ルーンは、ざっと三十人はいただろう男たちを思い返した。 「あれが、全部求婚者なんですか」 「いや、あれでも一部にすぎない。少しふるいにかけようと思って、わたくしの居所を探し当てた者を認めると言ってみたのだが、案外脱落しないものだな……君、何をむっとしているのだ?」 「別に」  ルーンは、自分が命がけで南へ来ているのに、レアンドラにはただの鬼ごっこだったのかと思い、むっとしたのだが、それを説明したくはなかった。けれどもレアンドラは、ほぼ正しく読みとったようだった。 「遊んでいると思うだろうが、わたくしにとっては遊びじゃないよ。モードレッドを降りたら話してあげよう」      四  小川の浅瀬を横切り、反対側の土手をのぼったところで、レアンドラは休みを入れた。対岸を見晴らせるので、男たちを目にしたらさっさと逃げ出せるからだ。岸辺の草は密《みつ》で柔らかく、座るには心地よかった。  ルーンの隣に並んで腰をおろし、水筒の一つをわたしたレアンドラは、自分もゆっくり飲み物を飲んだ。ルーンは口に含んでみて、水でわったぶどう酒らしいと思ったが、文句は言わないことにした。南のこのあたりでは、低地の川の水を飲まないほうがいいことは、経験から知っていた。  静かに息を吐いてから、レアンドラは話し出した。 「……わたくしは、何でも与えられている。女王家の血をひく女として、何の不自由もなく育った。頭脳や器量もギフトの一つと考えるなら、そうとうたくさんの贈り物を受けとったのだ。わたくしは、ほとんどのことで苦労をしない。たいていのものごとは、わたくしの思惑《おもわく》通りに進む——ただ一つ、愛することを除いては。愛することだけは、わたくしの手にあまるのだ」  ルーンは思わずかたわらを見やった。レアンドラは気高い女神像のような横顔を見せて、水の流れを見つめていた。 「北部と違って、南部は人口密度が高いぶん、人間関係も入り乱れてね。貴族間の権謀術数《けんぼうじゅつすう》は、たぶん南で発達をとげたものだろうな。チェバイアット家もごたぶんにもれず、家督相続《か とくそうぞく》には陰謀がつきまとった。わたくしがまだ幼いころだった。現在のアッシャートン侯爵が、同母の兄をさしおいてチェバイアット家当主におさまったのは」 「汚い手が使われたとか……?」 「もちろんだよ。君だって、貴族が高潔《こうけつ》な人間たちだとは、一瞬たりとも考えないだろう」  レアンドラは言い、ルーンはうなずいた。 「暗殺?」 「最初の養父は先代侯爵で、わたくしは、チョウよ花よと育てられていた。それでも、そういうことがおきる世の中だと知った。早熟《そうじゅく》な子どもだったと思うが、さすがに幼くて、自分を蠱惑《こ わく》的だとは考えていなかった。ただわたくしは、保護をどこに求めればいいか、必死で考えて知恵を働かせたつもりだったのだ」  両ひざに手を回し、レアンドラは自嘲するようにほほえんだ。 「君はトーラス女学校を知っているだろう。王族貴族の子女に悪い虫がつかないように、修道院の奥に閉じこめておくところ。けれども、そこで行われる教育は、男性相手の手練手管《て れんて くだ》を磨くところ。わたくしは、トーラスに入れる年齢になるやいなや入学して、あっというまに優等生になり、最優等のまま卒業した。それも当然だったのだ。入学以前に実地訓練をつんだ少女は、王族貴族といえどもあまりいないのだから」  ルーンは、カーレイルの山奥にあるバラ色の女学校を思い返した。あの修道院付属学校にいた生徒たちで、最年少の女の子はまだ十歳のはずだった……  長い間黙ったあとで、ルーンはたずねた。 「告発は?」 「それは、貴族を知らない者の言うセリフだよ。性的なふしだらは、この階級にはつきものだ。わたくしだって今さら気にしたくないし、だいたい、その頂点を極めるのが女王家なのだから、言う資格がない。女王家ともなると、結婚という制度自体が適用されないのだよ。だから姦通《かんつう》も意味をもたないし、近親相姦《きんしんそうかん》も許されるそうだ。わたくしとて、そこまで試そうとは思わないけれど」 「……愛することは手にあまるって、さっき言いましたよね」  ルーンは慎重に口を開いた。 「それを言いながら、他人を誘惑するんですか……?」 「どこかには、この手につかめる愛があってもいいだろう?」  レアンドラは革手袋を脱ぎ、長い指をなでて笑った。 「わたくしは君が気に入っているから、自分の影の話をした。十歳以前に世の中の暗い部分を見てしまった女の子は、取り引きを知っているが、打算《だ さん》のない愛情を与える方法はよくわからないことをね。でも、これを話せるのは、君も影を知る人物だからだ。世間は、清いばかりでわたっていけないことを知っている。わたくしたちは、だから、わかりあうものを持ってはいないか? もしもわたくしが、このような生まれでなかったら、わたくしはヘルメス党の道に走っていたかもしれないね」  ルーンはしばらく考えた。  彼女のまばゆいばかりの容姿の陰には、厳しく固い殻《から》が隠されているのだ。そして、その殻は、表現のしかたが似ても似つかぬものながらも、本質はルーンの殻、ルーンの傷と同じものだった。  ためらいながらルーンは言った。 「あなたは、ぼくと同じに、他人が信じられないのかもしれない。思ったほどあなたは、自分が好きじゃないんだ。どんなに努力しても、ぼくは自分が好きになれない……でも、これだけは言えると思う。ぼくは、フィリエルを信じている。他のだれも信じられないときでも、彼女だけは」 「捨てられたくせに」 「捨てられてなどいない」 「それなら、わたくしと君がここにいるのは、どういうわけなの?」  レアンドラはつめ寄った。 「君がフィリエルをしのんでいようと、わたくしは別にかまわないよ。現実に手に触れる場所にいる者のほうが、はるかに強みを握っているもの。いくらフィリエルが好きであっても、わたくしとキスしたいと思わないことはないでしょう。だいたいフィリエルは、そばにいたって、キスもさせてくれないんじゃなかった?」 「そんなことない」  言ってしまってから、ルーンはほぞをかんだ。レアンドラの思うつぼだった。彼女の紅いくちびるが、勝ち誇ってあやしく笑った。 「そう、キスはしているのか。よろしい、では、そのつぎは? 君には、気になる女の子としてみたいことが、もっとつぎつぎにあるんじゃないの?」  レアンドラは、今は両手を地面について身をのりだしていた。逃げ出すべきだと思ったが、ルーンは、目の前にあるみずみずしい果実に似たくちびるから、ついに目を離せなくなっていた。 「わたくしがきらいではないでしょう、ルーン。さっきのわたくしの話、同情する気にならなかった? ほら、まなざしが迷っている。だれが、わたくしとしてはいけないと言うの? かまわないのだよ。男の子がそういうものだということは、子猫ちゃんであっても、とうにトーラスで学んでいるはずなのだから……」  獲得したことを確信して、レアンドラはくちびるを寄せた。だが、彼女が触れる最後の瞬間に、ルーンは口を開いた。 「ユーナは、一人きりだからユーナというんだ。ぼくは博士と同じに、フィリエルをユーナと呼ぶことに決めた。あなたじゃない」 「おばかだね、君は。そんなにフィリエルを想っても、相手はどこ吹く風だよ。何もしてくれないばかりか、わたくしに君をあずける子だというのに」 「それでもいいんだ」  ルーンはがんばった。 「ぼくだって、フィリエルをユーシスにあずけようとしたことがあった。彼女が危険な目やつらい目にあうくらいなら、人のものになってもいいと思った。今は逆になっただけだ」 「やれやれ……意外に立ちなおりが早いな。憎らしい、こんなことになるなら、昨日のうちにさっさと押し倒せばよかった」  身を引いて座りこんだレアンドラは、髪をかきあげてぶつぶつと言った。ルーンは思わず胸をなでおろしたが、それもつかの間、気がついたら草の上にあおむけに倒されており、レアンドラがのしかかっていた。 「甘い甘い。このレアンドラが、そんなにすぐに獲物をあきらめると思った?」  じゃれつく幼獣のようにうれしがりながら、レアンドラが言った。ほっそりしているとはいえ、身長のあるレアンドラが巧みに動きを封じると、ルーンには抜け出すことがかなわなくなった。 「観念しなさい。君をその気にさせることなど、赤子の手をひねるようなものなんだから」  ルーンの瞳がくもった。彼は抵抗をやめて力を抜くと、感情のこもらない声でつぶやいた。 「好きにすればいい……レイプなら知っている。体が勝手に反応したって、自分には関係ないんだ」  レアンドラは、ルーンの服のボタンをはずしにかかっていたが、びっくりしたように動作を止めた。もの問いたげな彼女の視線から、ルーンは顔をそむけた。 「……だから、たぶん、ぼくはフィリエルを傷つけてしまう。そういう自分がきらいだ。なのに、それしか知らないんだ」  しばらく黙ってから、レアンドラは低い声で言った。 「……君は、かわいい顔して、興ざめさせる名人だな」  彼女は真実気がそがれたらしく、たいぎそうにボタンをもう一度とめなおした。レアンドラが身を引いたためにルーンは起きなおったが、決定的なことを語ってしまった自分に、くちびるがふるえるような気がした。  ため息まじりのレアンドラの声がした。 「今のが、君の本音中の本音か。子猫ちゃんに触れないのは、君のほうなのか。わたくしは、なんだかとってもばかを見そうな気がしてきたぞ」  ルーンが黙っていると、レアンドラは額を押さえながら、怒ったように言った。 「フィリエルを信じると宣言するくらいなら、信じてやったらどうだ。あの子がそれほどやわじゃないこと、どうして君だけには見えない? まったく、君ときたら、王立研究所にいたころからちっとも成長していないな。したたかで小ずるいあの子のことを、いまだにそれほど神聖視しているとは」 「彼女の悪口を言わないでください」  ルーンは眉をよせたが、レアンドラの剣幕《けんまく》には及ばなかった。 「いいや、言わせてもらう。わたくしはあの子がきらいなのだから。当然、向こうもわたくしをきらっているだろうが、それでも手紙をよこすから腹が立つ。なりふりかまわぬやり方だよ。そういうところが大きらいだ。策略をたてる頭もないくせに」 「あなたが勝手に、餌にくいついたんでしょう」  ルーンは、あまり理解できないまま言い返したので、レアンドラにこう言われてたじろいだ。 「そうだよ、ルンペルシュツルツキン、君というおいしそうな餌にね。フィリエルには、わたくしが君を助けに来ずにはいられないことが、はっきりわかっていた。しかし、あの子に、君が絶対になびかないことまでふむことができたのだとしたら、これは許しがたいぞ」 「……そんなことも、ないと思いますけど」  ルーンは自信なく言ってみた。しかし、気持ちが明るくなるのを抑えられなかった。フィリエルは自分を信頼し、ルーンはその信頼に応えることができたのかもしれない。 「君のその表情も、許しがたい。得意になってどうする。フィリエル同様のお子様だということが、露呈《ろ てい》しただけじゃないか。据《す》え膳《ぜん》食うこともできないで、ふがいないと恥じ入るべきだ」 「ええ、そう思います」  唐突にルーンは、態度をあらためて言った。 「レアンドラ、あなたが来てくれたこと、感謝しています。ぼくは、生きのびなくてはならないことが、ようやく身にしみた気がする。消えない傷があっても、だからこそ、いちいちへこんでいる暇はないんだ」  レアンドラはあきれた声を出した。 「天下一品のおばかだぞ、君は。このレアンドラを、カウンセラーに使って終わらせる気か」 「ええ、そう思います」  ルーンがかすかにほほえんだので、レアンドラは思わずまばたいて見なおした。それは、顔をほころばせたとも言えない笑みだったが、印象がくっきりと異なって見えた。翳《かげ》りの消えない灰色の瞳がつかの間ゆらぎ、用心深く隠してある本来の素直さがほの見えた。  息を吸いこんでレアンドラは言った。 「やっぱりもったいないと思わせるやつだな。ねえ、君、ちょっとわたくしをお母さんだと思って、抱きしめられてみないか?」 「あなたをお母さんだとは、とても思えません。遠慮しておきます」  ルーンがことわっている最中だった。対岸の草原に、とうとう追いかけてきた男たちの頭が点々と見えだした。 「残念、時間切れか。まったくよくねばる連中だよ。ただの体力勝負ではわたくしの気を引けないと、そろそろ学んでもよさそうなものなのに」  レアンドラがユニコーンの鞍帯をしめにかかるのを見ながら、ルーンは言ってみた。 「あなたはいつまで逃げるんです。見つかったのは事実だから、もう追いつかせてやったら?」  彼をちらりと見てから、レアンドラは再びユニコーンのしたくを続けた。 「君がそう言うなら、そうしてもいいよ。ただ、彼らが追いついたら、君を八つ裂きにすると思うけれど。何といっても、わたくしの腰にずっと手を回し続けているのだから」  ルーンは沈黙し、おとなしく準備を手伝うことにした。同時に、彼女の腰につかまることが快いことも、たしかに認めざるをえなかった。  モードレッドは二人を乗せて走りだした。今は彼らは、果ての壁の方角に向かっていた。苦心して浅瀬をわたりはじめる男たちを、はるかな後方へおきざりにしたころになって、ルーンはレアンドラの袖《そで》を引いて注意をうながした。 「どうした」  モードレッドの足をゆるめてレアンドラがたずねると、ルーンは落ち着いた口調で言った。 「ぼくはここで降ります。降ろしてください。あなたはこれ以上、求婚者を困らせないほうがいい」 「何を言っている。わたくしのそばを離れたら、君はあっというまに白い光のえじきだぞ。蒸発してなくなりたいのか」 「いいえ、大丈夫かもしれません」  驚くレアンドラをしり目に、草の上に降り立ったルーンは言った。 「あの光はあなたを襲おうとしなかったけれど、同じように、ぼくを直撃することもなかった——たぶん、できなかったのではないかと思う。あなたは、女王候補の保護《ほご》は優先事項だと言いましたね。だから、ぼくのことも消せなかったんだ。女王試金石を消滅させるわけにはいかないから」 「おめでたいな。確証はあるのか」 「ありません。でも、今は感じる——ぼくには星女神の加護《かご》があることを」  ルーンは服の胸を押さえ、石の感触をたしかめながらその言葉を口にした。 「だから、ぼくは、バードともう一度対決してみなくてはならない。逃げているわけにはいかない。あいつにどれほど否定されようと、ぼくはこういう者だ」  レアンドラは、ユニコーンの背から彼を見つめた。 「大胆不敵だが、無謀《む ぼう》だな。自力で立ち向かえる相手だと思っているのか」 「バードは、立証しろと言いました」  ゆるがない口ぶりに、彼女はため息をついた。 「その様子では、何を言っても聞きそうにないな。優秀なカウンセラーのアドバイスもここまでか。しかたがない。だれもがいつかは、自分で自分の勝負をつけるのだろう」  気落ちした様子のレアンドラが、やけに淋しげに見えたので、ルーンは口調をやわらげて言った。 「あなたは、愛し方がわからないと言っていたけれど、まだ自分にふさわしい人物を見つけていないだけだと思います。それだけの意味にすぎない」 「お子様にさとされたいとは思わんな」  レアンドラはそっけなく答えたが、そのあとで、にやりと意地悪くほほえんだ。 「そうだな。君がこの場をしのいで、いい男に成長するときがあったら、あらためて誘惑しにいくことにするよ。覚悟を決めておくといい」  いかにも彼女らしい捨てゼリフを残して、レアンドラはユニコーンの頭を回し、求婚者たちのいる方角へ引き返していった。その誇り高い姿とモードレッドの紫色が彼方の木立に隠れるまで、ルーンは草原にたたずんで見送っていた。 (……レアンドラに最もふさわしい男って、いったいどういう男だろう)  自分で言っておきながら、ルーンはしばし考えこんだ。だれから見ても、彼女と肩を並べるにふさわしい男というのは、ちょっとやそっとでは出てこないような気がする。  それは、尋常《じんじょう》ならず世に抜きんでた男——帝王エスクラドス級の男でなければ、とことん目立たない男かもしれなかった。 (……もしもケインだったら、彼女がどんなに凶悪な鬼ごっこをしかけても、見失うことなく黙々とついていくだろうな……)  ルーンはその考えがみょうに気に入った。あれこれ思い合わせながら、レアンドラが投げ降ろした荷袋をひろいあげ、肩にかついで歩き出した。とりあえずは、当初の目的だった果ての壁まで行ってみるつもりだった。  果ての壁までの距離は、もういくらもなかった。ほどもなくルーンは、かつて目にしたものと同じ、密生した森を切り取って直線の小道が走る光景を見出した。歩み寄って、そっと手を伸ばしてみる。見えない壁はちゃんとそこにあった。やわらかだがたしかな弾力を、手のひらに感じた。 (自己修復……バードはそう言った。この壁は生きているんだろうか……)  知りたいという気持ちは、支配欲かもしれない。それでもルーンは、知りたいと望まずにはいられなかった。早くバードがこの場によみがえってこないかと、待ち遠しい気さえした。  しばらくのあいだ、ルーンはあっちへ行ったりこっちへ行ったりして、壁の存在を確認した。竜の道は、今は閉じているようだった。竜の姿をほとんど見かけなかったわけが、これで納得できる。  世界の果ての壁が、枝を折られた植物が再び芽吹くようによみがえるとしたら、それは本当に不思議なことだった。生き物にならそれができる。しかし、植物は日光と水を養分にして芽を出すが、この壁は何を養分とするのだろう——  竜の道の平原を、草をなびかせ風が吹きすぎていった。果ての壁は風を通すのだ。髪をそよがせる風を感じながら、ルーンは仮説を立てては壊し、考え続けていた。そのときだった。  竜の道の真ん中をよぎる壁のあたりに、白い光が生まれはじめた。ルーンはぎょっとして身構えたが、彼を襲った閃光とは異なり、一帯がぼうっと輝くような光り方だった。そして、輝きはむしろ壁の根元に生まれて上へと広がっていく。  好奇心と身の危険を同時に感じて、ルーンはためらった。そばへ行ってたしかめたいが、あまりに危険でもある。結局、前進も後退もできずに立ちつくしていると、白い輝きの中央はむしろ黒く見えてきた。ルーンは思わず両目をこすった。黒く見えるのは、どうやら人影であるようなのだ。 「ルーン、生きていたのね!」  光の輪を抜け出すと、その人影はフィリエルに変化した。彼女は息せき切って突進してきたが、ルーンには動くことができなかった。あまりに虫がよすぎる気がしたのだ。ここで生身のフィリエルに出会えるなどと、うまい話を信じてはならない—— (いくら、星女神の加護があるといっても……) 「よかった、ルーン。あたし、もう気が気ではなくて。ああ、生きていてくれた。うれしい、本当に生きていてくれた」  フィリエルは半泣きで、思いきりルーンに飛びつき、強く抱きしめた。彼女の感触、彼女の髪の匂いだった。ルーンはまだ驚きからさめなかったが、フィリエルにさわれるならこの際、不可思議でも不合理でも、他の何であってもかまわないという気になった。 「フィリエル……ぼくは、きみのそばにいるために、証《あか》しを立てないといけないんだよ」 「証しなら立ったわ。あなたは今の今まで生きのびたもの——バードは再生したのよ」 「再生した?」  ルーンは思わず体を引いて、フィリエルの顔を見やった。 「それなら、ずいぶん危険じゃないか」 「ええ、危険はまだまだあるわ。あたしたちは、今でも旅の途中よ……でも、最初の危機は乗りこえたのよ」  フィリエルはふるえる息をつき、手の甲で涙をぬぐった。 「フィーリがあなたを殺したら、あたし、この世界などぶち壊してしまうところだった。果ての壁なんて、消えてなくなればせいせいすると思ったわ」  よくわからないながらも、ルーンは彼女の気持ちをしずめる手段と心得て、ぬれたほおにキスをした。 「……もしかして、女王には、果ての壁を消す力があるのかい?」 「女王が敗北を宣言しただけで、この壁は消え、この世界は終わるの。でも、そうするわけにはいかないでしょう。フィーリは今では、宣言を待つ態勢に入っているわ。だから、バードの再生をしなくてはならなかったの」  フィリエルは早口に訴えたが、ルーンはこんがらがっただけだった。 「あのさ……壁からわいて出てまで、ぼくのところへ来てくれたんだから、もう少しわかるように話してくれないかな」 「こうしてはいられないのよ」  われに返った様子でルーンの手をつかむと、フィリエルは言った。 「ルーンも来て。あたし、女王試金石をとりに来たの。北極ではそれが必要なんですって。バードがあきれ返って、この道を作ってくれたの——いいじゃないのよね、母のかたみをあなたのお守りにするのは、あたしの勝手なんだし」 「道? どこの道?」  ルーンをぐいぐいと引っぱって行きながら、フィリエルは答えた。 「バードとケインがミルドレッドにいるのよ。何も感じないから大丈夫、ほんの一瞬だから」 「だけど、フィリエル、ぼくはバードに——」  ルーンは言いかけたが、そのとき彼女に白い光のなかに引っぱりこまれた。すると、周囲は白一色に切り替わり、何も見えなくなった。 [#改ページ]    第四章 塔の中の賢者      一 「こんにちは」  吟遊詩人があいさつをした。  彼は、新品の砂色の上着をまとっていた。そして、どうかと思うことには、つばの広い麦わら帽子を被っていた。案山子《かかし》にそっくりである。  ルーンは彼を目にするなり後ずさったが、フィリエルが腕をからめてくっついていたので、後ろを向いて逃げ出すにはいたらなかった。  フィリエルはというと、ルーンが顔色を変えたことには気をとめず、彼の腕を気にしていた。 「ねえ、ルーン、またやせたでしょう。本当にすぐ、ごはんを食べなくなるんだから」  ルーンは吟遊詩人を指さした。 「こいつの顔の見えるところでは、二度と一口だって食えるもんか。フィリエル、知らないだろうけど、ぼくはこいつに——」 「まあまあ」  バードがのんびり口をはさんだ。 「フィーリに手ひどくいじめられたみたいですが、とりあえず、あれはわたしではないと言っておきましょう。しかし、あなた、いじめやすいタイプですよね」  ルーンの耳もとでフィリエルが説明した。 「この人は、双子に生まれたと考えるとわかりやすいのよ。あなたと南へ行ったのは、師匠の言うことをきくバードで、ここにいるのは、言うことをきかないバードなの。別人だって、あたしが保証する。だって、このバードは生まれたときからあたしといたんですもの。あたしが育てあげたのよ」 「育てあげた?」 「二カ月前は赤ん坊だったの」  バードがうなずいた。 「促成培養《そくせいばいよう》は、足腰が弱くなるんですが、まあ、ぜいたくを言ってはいられません」  ルーンは多少混乱しながら、フィリエルに言った。 「きみは、再会するたびに変なものを育てているんだな。ユニコーンが大きくなったら、こんどはこれかい?」 「今思えば、ルー坊のほうが、ずっと手がかからなかった気がするわ」  のみこむための時間を少しとってから、ルーンは低い声で言った。 「……きみは、ぼくと別れてからバードを育てたのかもしれない。けれどもぼくは、バードを殺したんだ。彼とは、果ての壁に行きつかなかった。バードは、自分を殺す者への報復を女王が許可していると言っていたよ」  吟遊詩人がにこやかに言った。 「なりゆきは知っています。相手に殺させるのはフィーリの常套《じょうとう》手段ですね。そうしないと、不必要に世界へ関与したことになってしまうからなんです」  ルーンはとまどった顔で、麦わら帽子のバードを見つめた。 「……あれはフィーリで、きみがバードなのか? しかし——」 「手紙をあげたのは、このわたしです。ちょっと、上にばれない小細工を使ったんです。もっとも、フィーリとバードは厳密には境界線のない存在です。特に、竪琴を持つかぎりはね」  からの両手をふってみせて、バードは言った。 「ほら、バードでないのは、厳密にはわたしのほうなんですよ。まぎらわしいから、わたしがバード、あちらがフィーリでさしつかえないと思いますが」  眉をよせてから、ルーンはたずねた。 「それで、あんたは、どこまで知っているんだ」 「すべて」  あっさりとバードは告げた。 「月と交信すれば、記憶はすべて共有できます。あなたのデータをとったことも、あなたに殺されたことも、わたしの記憶にあります」 「それなら——」  ルーンは暗い目で見やった。 「あんたも同じに否定するんだろう。ぼくは、彼に言われたことを何一つくつがえせなかった」 「あたしが否定させないわよ」  フィリエルがきっぱり言った。 「条件は、ルーンが今日まで生きていることだったんですもの。これでバードがあなたを認めないなら、あたし、暴れてやるから」  バードは鼻の頭をかいてから言った。 「……世界はまだ、フィーリの意識で回っています。残念ながら、それはたしかです。だからこそ、あなたを認めるためにも、われわれはフィーリを倒さなくてはならないんです。女王試金石をもってきましたか?」  金鎖のとめ金をはずしながら、ルーンはようやく周囲に目をやる余裕をもった。自分たちがいるのは、からっぽの納屋のような、がらんとした掘っ立て小屋だった。粗い板壁のすきまから、外の光がもれてくる建物だ。しかし、自分がどうやってこの建物に入ったか、どうしても思い出せなかった。 「きみのお守り、役に立ったよ」  青い石をフィリエルに返しながら、ルーンは言った。 「だけど、どうして、よりにもよってレアンドラに手紙を書いたんだい?」  フィリエルはそれを聞くと、さっと顔色を変えた。 「彼女に会ったの?」 「もちろん会ったよ。危ないところを助けてもらった」 「まあ、レアンドラときたら。本当に出かけていくなんて……」  フィリエルはつぶやくと、今度はみるみる赤くほおを染めて憤然とたずねた。 「ルーンったら、あたしの知らないところでレアンドラと二人っきりになったのね。どこで会ったの? いったい何日すごしたの?」  ルーンはいきまくフィリエルを、困惑した目でながめた。 「だけど、きみが手紙を書いたんだろう?」 「できることはすべてしようという気持ちになったんだもの。何がどうなっても、生きていてほしかったんだもの。だけど、あたし、ケインが必ずルーンを追っていくと思っていたのよ」  フィリエルは足をふみ鳴らした。 「ひどいわ、二人っきりになるなんて」 「それを、ぼくに言われても……」  そのとき、納屋の戸口が開いて、食べ物の袋をかかえたケイン・アーベルが入ってきた。 「おや、ルーン、到着してたんですか。カグウェルへ行ってなどいなかったんですね」 「ケイン」  これは本物のケインであることを、よくよく確認してから、ルーンは言った。 「……ぼくはカグウェルにいたよ。果ての壁が、竜の道をふさいでいるところを見ていたんだ」 「まさか。フィリエルがあなたを迎えに行ってから、まだ三十分もたちませんよ」  ルーンは、ケインが開けた扉の向こうの景色に気づいた。森はどこにもなく、ひなびた民家が数軒屋根を並べている。屋根の向こうに青い山影が見える。思わず戸口に駆け寄って、乾いた涼しい風に驚いた。 「ここは……?」 「町の名ですか? メムロンです。ミルドレッド公国で最もグラール寄りの」 「ミルドレッドへ行くって、あたしが教えたでしょう」  フィリエルが腰に手をあてて言った。 「レアンドラのいる場所なんて、もう空の彼方よ。今となっては、どうやっても手など出せない。この上はじっくりと、何があったか話してもらいますからね」  ひるんでいるルーンを見やってから、麦わら帽子のバードが言った。 「長くなりそうな尋問だから、後にしてくれませんか。まだ、われわれには急務があるんですから。北極から無事に帰ってきたなら、彼を煮るなり焼くなり好きにしてください」  ケインが食事にしましょうと言ったので、その後はしばらくものごとが中断した。ルーンは言ったことを実行しようとしたが、フィリエルとケインに二人がかりで説き伏せられ、しぶしぶいっしょに食べることになった。  ケインが手に入れてきたのは、皮の厚い素朴なパンと、ヤギ乳のチーズ、骨つきのハム、フィリエルの好きな木イチゴなどだった。うれしそうに食べるフィリエルが前にいると、昔の習性で、ついつい自分も口にしているルーンだった。それでも、一番よく平らげるのはやっぱり吟遊詩人だった。  ルーンは、ケインが自分用に瓶入りの麦酒を買ってきたことには驚かなかったが、吟遊詩人がいっしょになって飲むのには驚いた。カグウェルへの旅の途中、ルーン同様に、バードがアルコールを求めるのは見たことがなかったのだ。  まじまじ見ているルーンに気づいて、バードが語った。 「嗜好《し こう》というのは育ちが影響しますよね。わたしは酔わない体質なんですが、他人が飲んでいると、どうも欲しくなって」 「あたしが酒飲みにしたと言いたいのね」  フィリエルがルーンに、彼は生まれた次の日に酒類を飲んだのだと詳しく教えた。 「……本当に、きみが育てたみたいだね」 「だから、言っているでしょう。何百回もあたしがおしめを変えてあげたのよ。だから、大きな顔はさせないつもり」  バードが、興味ありげにルーンを見つめた。 「差異《さい》が見えてきましたか?」  ルーンはそっぽを向いたが、怒った口調ながら彼に言った。 「あんたが、世界の果ての壁の秘密を教えてくれるなら、認めてやるよ。ぼくがいっしょに旅したやつは、言った覚えはないとぬかしたぞ」 「そうでしょう。あれは、手紙と同じにオフレコの会話でしたからね」  バードはうなずいた。 「果ての壁は、フィーリの指先のようなものだと考えてください。けれども、彼の目は上空に、彼の頭は北極にあるわけです。そして、フィーリが囲った地域だけが、われわれに許される世界となるのですよ」 「そんな、わけのわからないこと言われて、納得するもんか」 「あなたならそう言うでしょうね。けれども、フィリエルが知っているのも、ほぼその程度ですよ。ほら、わたしは言ったでしょう、フィリエルが知っていることを教えてあげると」  吟遊詩人は木イチゴをつまみながら、のんびりと言った。ルーンは思わずフィリエルの顔を見た。フィリエルは小さく肩をすくめた。 「たしかにそう、あたしの知っていることも、物語みたいなものよ。ただ、そうだというだけで、理づめで考えてもわからない。ルーンは、金の鳥を探しにいった王子が、キツネのしっぽに乗って旅したのは、どうしても納得しないと言っていたでしょう。あれと同じよ」 「……そういえば、きみに説明してもらうと、よけいにわからなくなることを思い出したよ」  キツネという生物は、オオカミと同じく架空《か くう》のもので、この地上には存在しない。フィリエルは、馬のような大きさで、しっぽが体の二倍ある生き物だと言ってゆずらなかったが、ルーンはそれでも乗せて走るのは不可能だと思っていた。  フィリエルは真剣な調子になった。 「でも、これだけは言えるの。あたしたちがフィーリの領域をふみこえてはならないのは、竜たち南の生き物を滅ぼさずに、この星を分かちあうためなの。でも、それができなくなりかけているのよ」  すぐに思いついて、ルーンはたずねた。 「ブリギオン軍が、果ての壁沿いの道を作ったからかい?」 「そうよ、よくわかるのね。あたしたちは軍隊をつくって戦ってはならないの」 「そういえば、レアンドラは軍隊を解散したね。でも、今、その道のあたりで、求婚者軍団と鬼ごっこしているけど」  これも思いつきで言っただけなのだが、フィリエルの目つきは急に怖くなった。 「あなたね、そんなにレアンドラに話をもどしたいなら、もどしてもいいのよ……」  ひるんでいるルーンを見やってから、吟遊詩人はもう一つ木イチゴをつまんだ。 「初代女王クィーン・アンは……彼女のクィーンはただの名前で、最初から女王だったわけではないのですが……この知識に男性が介入することを嫌いました。権力欲、支配欲を押し進め、武器を開発して集団で隣人を殺すのは、過去の歴史においてもだいたい男性でしたからね。そして、科学的発展は、もっとも厳重に芽をつまなければならないものです。彼女の理想とする牧歌的《ぼっか てき》な国では、飛躍的な生産力を手にしてはならない。人口爆発があってはならないのですから。そこから領土の奪い合い——戦争が始まるのです」  彼は、静かに言ってルーンを見た。 「科学的発明を生む人間も、たいていは男性から出てきます。ヘルメス党の人々は、こうした女王の危惧《きぐ》にもっとも抵触《ていしょく》する人間だったのです。今ならわかりますか?」  ルーンは眉をひそめた。そうした口調になると、麦わら帽子のバードは、いやになるほど以前のバードと同じに見えた。 「それを言うなら、ブリギオン帝国はどうなっているんだ。火薬を使って戦争をしかけてくる国があるのに、研究すらするなと言われて、戦争が止められると思うのか?」 「研究する人間を認めないわけではありません……王立研究所があるでしょう。野放しの、暗い欲望につながる科学|指向《し こう》が危険なのです」 「認めているとは思えない。あそこに隠蔽《いんぺい》しているだけじゃないか」  ルーンが声を尖らせると、バードはあっさりうなずいた。 「ある意味、そうです。歴代女王はすでにミスをおかしています。そして、今、一番見たくないものを目にしている……ブリギオン帝国を」  バードは指をくみあわせた。ルーンが見た覚えのない彼のしぐさだった。そしてそれは、前のバードなら竪琴を手にしていたからだと気がついた。 「コンスタンス女王はすでに、こうした危機に直面しては、従来の方法論では立ちゆかないと結論しています。男性を知恵から排除《はいじょ》し、科学指向を排除して、グラールを維持《いじ》するわけにはいかないと。しかしながら問題は、初代クィーン・アンの定めた設定を、フィーリは変えることができないのです。彼にできることは、今や終末を宣言することだけです」 「終末?」 「白紙にもどすということです」  フィリエルがパンくずを払って、きっぱりと言った。 「あたしは、おばあさまに賛成よ。多少の不都合がある世界だからって、白紙になどさせないわ。自分の生まれた星だもの。だから、バードと北極へ行ってくるのよ。ルーンも来て」 「行くよ」  即座にルーンは同意した。バードは少々びっくりして少女を見た。 「フィリエル……わたしは、彼をつれていくとまでは言っていませんが」 「だめよ、行くの。もう二度と離れないと決心したのよ。ルーンったら、あたしがちょっと目を離すと、ごはんを食べないで衰弱死《すいじゃくし》するか、虫にたかられるかどっちかなんだもの」 「虫……?」  それまで、気配を消したように静かに座っていたケインが、麦酒の瓶をおいて立ち上がった。 「北の果てへ行くなら、何かしら防寒具が必要でしょう。手に入れてきます」  フィリエルは彼に言った。 「あたしたち、今度は長い旅をするわけじゃないのよ。このバードなら、目的地まで道をつくることができるの」 「それでも、ルーンは南から来たばかりだし、彼の服は換えたほうがよさそうですからね」  それはたしかにそうだった。ルーンの黒服はあちこちほころびかけて、繕《つくろ》い忘れた穴がいくつもあいていた。 「そうね。それなら、あたしもいっしょに行ってみようっと」  フィリエルは、急に元気になってケインに続いた。ケインはルーンを見やると、穏やかにほほえんで言った。 「ルーン、フィリエルがヘルメス党にやって来たとき、わたしはこれで、影の王国に光が当たるかどうかの正念場が来ると思ったものですが、今はまさにそのときのようですね。われわれを代表して、がんばってほしいですよ」  彼とフィリエルが小屋を出ると、吟遊詩人はうれしそうに言った。 「いい人ですよね、アーベル氏は。そう思いませんか」 「当然だろう」 「理解できないものに出会っても、平然と受けとめる、あの態度がすごいですよ。ああいう素質も、ヘルメス党で養成されるものでしょうかね」  ルーンが答えずにいると、バードは少しあらたまった口調で言った。 「陛下とわたしが再考するきっかけを作ったのは、じつは、アーベル氏なんですよ。検索したら、やはり彼とわたしには血のつながりがありました。しかし、まさか、子孫がヘルメス党としてこの世に生きているとは。わたしのこのボディは、グラール創生時《そうせいじ 》にフィーリを考案した、科学技術者のクローンから作られているんです」  ルーンは思わずバードを見つめた。 「どういう意味だい、それは……」 「生命力はときとして、予測もつかない変転《へんてん》をとげるものですね。かなわないと思います」  かまわずに言葉を続けて、麦わら帽子のバードはにっこりした。 「本当によく生きのびましたね、ルーン。わたしもじつは、あなたにそれができると思っていなかったところがありました」  ルーンはまだバードを警戒していたが、用心深く言った。 「……言われたことは、全部真実だったよ」 「そうでしょう。そしてそれが、善良なフィーリの限界です。わたしだったら、観察をもとにこう考えますね。子を産む性に愛される素質をもつことが、じつは最強の生き残りプログラムではないか——とね」  ルーンは、わたされた服に文句を言わずに着替えだした。明るい緑色しか手に入らなかったので、ちょっと心配していたフィリエルは、胸をなでおろした。ポケットがたくさんあるという、好みの条件には合っていたので、大丈夫だったらしい。 「ねえ、ルーン。気がついている? あなた、あたしに女王試金石をわたしたのに、メガネを返せとまだ言わないのよ」  フィリエルが指摘すると、ルーンは今思い出したように顔を上げたが、そのまま着替え続けた。 「いいよ、まだ、きみがもっていて。これから行くのは、フィーリの本拠地なんだろう。ぼくはたぶん、彼の前ではメガネをかける気にならないから」 「どうして?」 「あいつに、二度と言われたくないことがある」  しばらく黙ってから、ルーンは言葉を続けた。 「……博士はぼくに、度のないメガネをくれたけれど、それを身につけたって、彼になれるわけじゃない。博士もそのつもりじゃなかっただろう」 「別れる前にも言っていたわね——博士になれないって。何をそんなにこだわっているの?」 「メガネをかけると安心するんだ。でも、そんなふうに、自分と向き合えずにいるから、きみが誤解をするんだ」 「あたしが何を誤解するのよ」  フィリエルが思わず近づくと、ルーンは少し目をそらせ、つぶやくように言った。 「顔を隠せば、抑えられるような気がしていたんだ——ぼくの、不幸を呼び込む性質を」 「あたしは好きよ、ルーンの顔」  のどもとのボタンをとめてやりながら、フィリエルは言った。 「初めてあなたの睫毛《まつげ 》にさわりたいと思ったときから、たぶんずっと、気に入っていたんだと思うわ。ねえ……自分に似た顔の人がいたら、ルーンは会ってみたい?」  ルーンはけげんな顔になった。 「なんだい、それ」 「そういう人が、もし、おおらかに笑っていたら、ルーンも安心するかと思って」 「会いたかないよ。気味悪い」  根っから不機嫌のしみついたルーンだった。しかし、これがフィリエルのルーンだった。へたに仕向けるのはやめようと、フィリエルは考えた。もしもそれが運命だったら、ルーンはどこかで彼に出会うだろう。そのときを静かに待てばいいのかもしれない。 「フィリエル」  ふいにルーンが言った。 「フィーリの頭が北極にあって、目が空にあって、手が南の果ての壁なら、足はどこにあるのかな」 「足はないんです」  吟遊詩人が口をはさんだ。 「しいて言うなら、バードが足でしたが、今は更新中だから数日使うことができません。だからこそ、われわれのチャンスになるのです。わたしがまず南へ飛んで、あのバードを始末する計画でしたが、ルーンのおかげでずいぶん手間がはぶけました」  彼は、指の関節をいくつか鳴らすしぐさをしてから、小屋の隅の何もない場所を指し示した。 「さあ、できましたよ、われわれを北極へ飛ばす道が。三人用の微調整がやや心もとないですが、フィリエルもルーンも、微細なぶれなどものともしない人たちだから、きっと大丈夫ですね」      二  周囲は白一色で、明るくまばゆいものの何も見えなかった。ルーンが不思議そうにたずねた。 「ここ、本当に北緯九十度地点?」 「北極点へ行くとは言ってませんよ。北緯八十二、三度といったところです。陸地の北限ですから」  吟遊詩人が説明し、フィリエルは頭巾《ず きん》を脱いで言った。 「寒くないじゃない。こんなに重たい被りものつきのマントを着てきたのに」 「それは、わたしがまだバリアーを解《と》いていないからです。外は氷点下です」 「夏の北極は太陽が沈まないんだろう。それでも氷点下?」 「内陸ですから、氷床はもっと緯度の低いところまで広がっていますよ」  バードも今では麦わら帽子をやめ、頭巾のある毛織りのマントを着込んでいる。ひと息ついて、彼は言葉を続けた。 「……われわれはこれから塔へ入りますが、その塔は全体がフィーリだと考えてください。壁もドアも全部。だから、気やすく会話ができるのは今が最後です」  ルーンが気むずかしい顔で見上げた。 「聞いていなかったけれど、あんたは、フィーリに対してどういう勝算をもっているんだい?」 「じつをいうと、この先の計画は立っていません。フィーリの出方によるからです。一番|穏当《おんとう》な方法は、主導権の交替によって退場してもらうことですし、一番|過激《か げき》な方法は、相手の破壊です」  そう言ってから、バードは少しためらった。 「……でも、破壊による方法は少々難ありなんですよね。果ての壁は時間をかければ修復できますが、空の目である真昼の星は、コントロールをなくしたとたんに地上に堕《お》ちます。そうなったら大惨事《だいさんじ 》ですよ」  フィリエルがうなずいた。 「『真昼の星が落ちたらおしまい』ってことね。やっとわかったわ」 「とりあえず、フィリエルは、女王試金石をもつ者の権利として、フィーリと会話する資格がありますから、そこから始めてみましょう」 「なんだか、たよりないな……」  ルーンが率直な感想をのべると、フィリエルも言った。 「それは、最初からあたしもそう思ったの。バードって自信というものがないのよ。でも、当たって砕《くだ》けるしかないわ、行きましょうよ」 「では……」  吟遊詩人は中途半端に腕をかかげたが、急に思いなおし、言いはじめた。 「わたしは今まで、更新するパーツを惜しいなどと思ったことなく存続してきました。今回だって、たとえフィーリに打ち負かされたからといって、次が生まれるだけの話です。なのに……」  彼は自分の手を、初めて見るもののように見やった。 「月から送られた体は、もう、フィリエルに育ててもらったものではないと思うと。変ですね、だめにするのが惜しくて、危ないことがしたくないです。なんだか、フィーリに会いに行きたくない。こういう気持ちは初めてですよ」  ルーンは怒った声で言った。 「だれだって、今の自分が——命が惜しいんだよ。死ぬのは怖いって、そんなことも知らなかったのか。人間はだれ一人、更新なんかしやしない。それでも、フィーリの塔へ行こうとしているんだ。なくしたら最後の体をはって、毎日生きているんだぞ」 「そうでしたね」  まばたきして、バードは彼を見た。 「今のは、叱咤《しった 》する父親みたいでしたね、ルーン」 「気色の悪いことを言うな!」 「了解しました。バリアー解除《かいじょ》します」  唐突に、なぐりかかるような寒気が襲い、フィリエルはあわてて頭巾をひき被った。雪混じりの突風が、真横から吹きつけてくる。たちまち顔を打ち、睫毛に雪片がくっつき、息さえできなかった。  かろうじて強風に背を向け、フィリエルは叫んだ。 「何、これ。前が見えない」 「すみませーん。やっぱり、ぶれてました」  間のびしたバードの声が、風のうなりの中に聞こえた。 「塔の前に出たはずなんですが。少し歩いてください」  みるみるうちに体温が逃げていき、毛織りのマントも効果を感じられなかった。足もとの雪は白い砂のようで、さらさらに乾いてくっつきもしない。空は低く雲がたれこめ、太陽が沈まないにしても意味をなさないようだった。  風に向かって歩くのは、わずかの距離でも大変だった。だが、顔をそむけてよろけているフィリエルに、ルーンの手がさしだされた。 「ほら」  その手を握ると、フィリエルにも前を向いて歩くことができた。一人で来なくてよかったと、しみじみ思うフィリエルだった。 (……いつもいつも、やさしくなどしてくれなくていい。いつもいつも、ほほえんでなどいなくてもいい。逆風の中で、この人は必ずあたしに手をさしのべてくれると、それだけわかっていたなら……)  ルーンに言葉をかけたかったが、歯の根があわなかったので、やっぱり何も言えなかった。  やがて、白濁《はくだく》して何も見えなかった光景の中に、ぼんやりした影と点滅《てんめつ》する色が見えてきた。フィリエルたちの頭上はるかなところで、赤と青と緑の光が交互にまたたいている。フィリエルは、以前にもこの光を見たことを、ぼんやりと思い出した。 (あれは、たしか、森の星神殿で……)  あのときは、女王の部屋で見た一瞬の| 幻 《まぼろし》だった。けれども今、フィーリの塔は鋼鉄《こうてつ》の壁をともなって、彼女の面前に存在していた。  なめらかな灰色の金属壁に近づいたフィリエルは、夢でない証拠にさわってみたが、すぐに後悔するはめになった。冷えきった表面に指がくっつき、もう少しで皮膚《ひふ》をもっていかれそうになったのだった。 「中に入りますよ」  バードが風に負けまいと叫んだ。見たところ、塔の壁に入り口らしきものはなかったのだが、バードが慣れた様子で壁の小窓を開き、その中のボタンをいくつもたたくと、かたわらで大きな口が開くように、下から上へ扉が開いた。  雪嵐《ゆきあらし》が遮断《しゃだん》されることは、心底ありがたかった。金属の扉がぴたりと閉じると、風の音も閉めだされ、落ち着いた静けさがやってきた。だが、静かだと思ったのは最初だけで、すぐにフィリエルは、耳の底でうなる、ミツバチの羽音のような音に気がついた。 「あの音は?」 「フィーリの心音《しんおん》——とでも言っておきましょうか」  雪を払い落としながらバードが言った。磨いた石の床に落ちた雪は、すぐに湿り気をおびた。この中はいくぶん暖かいのだ。 「これ、何でできた光?」  見回してルーンがたずねた。彼らが入った場所はおそろしく殺風景で、湾曲《わんきょく》した壁と、中央のたいそう太い丸柱と、そこに設置した金属の手すりをもつ階段以外に何もなかったが、壁の何カ所かが丸くぼうっと光るために、それらが見てとれるのだ。 「訪れる人間がいなくても、標準設備として照明灯をもうけたんでしょう」  やや的はずれに答えてから、バードは階段を指し示した。 「上へ行きましょう。動力が熱を発していますから、もっと暖かいですよ」  階段は、らせん状に回ってけっこう続いていた。足が痛くなったが、おかげで、骨の髄《ずい》まで冷えきった体に熱をとりもどすことができた。フィリエルは階段を登るうちに、ミツバチのようにうなる音が柱の内部から響いてくることに気がついた。 (塔全体が、フィーリ……)  なんとも言えず、気持ちの落ち着かない場所だとフィリエルは考えた。ここの空気は、なぜか敵意に満ちあふれているように感じられる。フィーリと対面することが、急速に恐ろしくなってきた。  やがて、らせん階段は広いフロアにたどり着いた。中央の柱は、このフロアにきて円形のテーブルを周囲にそなえ、テーブルから天井近くまでは、透明な円筒に切り替わっていた。  テーブルは黒曜石《こくようせき》のように見え、フィリエルには幾何学《き か がく》模様《も よう》としか言えない装飾が、表面一面についている。あちこちで、赤や青や緑の色ガラスを配したボタンの明かりが輝き、ときどき点滅するので、光の踊りを見るようだ。きれいと言えばきれい、まがまがしいと言えばまがまがしかった。 「このフロアに立った人間は、創設者《そうせつしゃ》を除けばあなたがたが最初でしょうね……」  やけに気のりのしない声で、バードが説明した。 「しかし、この場所は、空の目に中継されてグラール女王の所持する鏡に届きます。歴代女王は、鏡越しにフィーリと会話したものでした。まあ、まずは、正式の手続きをふみましょう。フィリエル、女王試金石をそこのトレイにのせてください」  フィリエルはためらい、ルーンを見やった。彼は、光に幻惑《げんわく》されたようにテーブルに見入っていた。その顔には、無邪気とも言える驚きと賛嘆が浮かんでいて、警戒心など置き忘れているようだ。内心ため息をつき、フィリエルは女王試金石を手に、前へ進み出た。 「どれがトレイ?」 「真ん中の、浅くくぼんでいる……そう、それでいいです。少しお待ちください」  石を置くと、四角いその場所はうっすらと輝きはじめた。同時に、青い石の内部では細かな光が散っているように見え、フィリエルは不思議に思って顔を寄せた。そして、ふいに感情を抑えた女性の声が聞こえたために、はじかれたように飛びのいた。 「照合《しょうごう》が終わりました。あなたを女王後継者と認めます。賢者《けんじゃ》との会話を望みますか?」  思わず左右に目をやったが、女性などはどこにもいなかった。フィリエルはおずおずと答えた。 「ええ……望みます」 「声紋《せいもん》を新規登録します。では、賢者にお会いください」  その宣言とともに、テーブルの上の透明な円筒では、白い光が輝きだした。  うろたえて後ろをふり返るフィリエルに、バードがそのままと合図を送った。彼の隣で、ルーンはやっぱり陶然《とうぜん》と輝く円筒に見とれていた。  フィリエルが向きなおったとき、光は急速におさまった。代わりに、純白の長衣をまとった老人が黒いテーブルの中央に立っていた。不思議なことに、円筒の透明な壁はどこにも見あたらない。手をのばせば、老人の白い衣に触れることがかないそうだった。  賢者は白い髪と髭《ひげ》を長く伸ばし、てっぺんの尖った白い帽子を被っている。その瞳は深淵《しんえん》を思わせるほど黒く、ぼさぼさの灰色の眉は逆立ち、鼻はそいだように尖っていた。  たいそうな高齢と見えるが、樫《かし》の木のように、年を経てますます頑健《がんけん》そうでもある。ふしくれだった手には、こぶのある長い杖をきつく握り、杖をついた立ち姿には、ただならぬ気迫がこもっていた。へたに怒らせてはならないと、すぐにさとらせることのできる老人だ。  ルーンは、老人の長衣の裾から、皮のサンダルをはいた足がのぞいているのをつくづくと見て、バードにささやいた。 「足、あるじゃないか」 「あれは映像ですよ」  おもしろくなさそうにバードはささやき返した。  フィリエルは老人に目を奪われていた。彼女が、賢者とはこうもあろうと、以前に思い描いたとおりの姿だったのだ。 「あの、あなたがフィーリ……?」 「いかにも、わしがフィーリだ。この世界を守護する者である」  老人は高い品格をそなえ、権威《けんい 》を肌に感じさせる声で答えた。 「して、そなたは、なにゆえにわしの目をさまさせた。問いがあるなら聞いてしんぜよう」  バードはルーンにささやいた。 「フィーリの弱点は、ここにいるフィリエルと鏡の向こうの区別がつかないことです。未踏のこの地にたどり着く人間がいることなど、想定されていないのですから」  フィリエルは少し考えてから、思いきって口にした。 「あたしがおたずねしたいことは、あなたがこの世界をどう思っていらっしゃるかです。ブリギオン帝国の軍隊からこの国を救うことは、可能でしょうか。不可能でしょうか」 「娘よ。ついにその問いを発することになったか」  重々しい口調で、感慨さえこめて、フィーリは語った。 「あまねく世界を見守るわしの目が、そなたの子孫を見守り、検討を重ねた。女王の末裔《すえ》は、もてる技能を尽くしてブリギオンの軍隊を駆除《く じょ》するだろうが、ほころびは同国内から始まる。五十パーセントの確率で、そなたの子や孫が配偶者《はいぐうしゃ》選びをまちがえ、グラールそのもののブリギオン化を促進させるだろう。今はまだ、わしも、その災いを摘みきっておらぬ。だが、女王の要請とあらば、さらなる強化の用意がある」  フィリエルは少々混乱したが、かさねて問いかけてみた。 「さらなる強化とは、具体的にどういう手段をとるのですか。それがわからないと、要請のしようがありません」 「ヘルメス党の完全|撲滅《ぼくめつ》を受諾《じゅだく》せよ。かのやくざな組織は、この一、二世代で急速に力を伸ばした。わしの追跡調査によれば、現時点でミルドレッドの潜伏地をたたけば、撲滅の可能性はある」 「そんなこと、させません」  強い口調で言ってしまってから、フィリエルは、賢者との対話に感情を荒立ててもむだだと思いなおした。 「……ええとですね、ミルドレッド公国はすでに、アッシェンド大公の所領ですから、好き勝手をするのはまずいと思うんです」 「わしなら、うまくやる」  自慢げにフィーリは言った。 「貧しい山岳の村には、吸血鬼伝説がよく効《き》き目を現すものだ。この地が伝説を排除して作られているだけに、原始の心性《しんせい》に直截《ちょくさい》にうったえる。上手に措置《そち》をほどこせば、ほんの数カ月で、地元民はクワや杭《くい》を手にして、集団で彼らに襲いかかるであろうよ」  フィリエルは目を見開いた。 「それって……ブリギオン軍以上に悪らつなのでは……」 「どういう意味だ、悪らつとは。わしは、ただこの世界の存続につとめているだけだ」  老人は機嫌をそこねたようだった。 「そなたの血縁者には、今もなお、このヘルメス党に入れこむ愚かな娘がおるぞ。このような過失を女王家からぬぐい去ることこそ、そなたの世代に課された責務である」 「大きなお世話よ」  賢者の取り違いに気づいたフィリエルは、声をとがらせた。 「本人を目の前にして、よくも言えたものだわ。グラール女王は、あなたみたいな堅《かた》ぶつ、もう見放しているって知らないんでしょう」  老人は眉をよせ、うなるように言った。 「……そなた、よもやフィリエル・ディーではあるまいな。かの孫娘は、とっくに排除の決定が下ったはず……」 「あなたはやっぱり、モウロクしている」  こぶしを握りしめてフィリエルは言った。 「レアンドラかアデイルが、あなたに会話を申しこんだら、今のをそっくり言うつもりだったのね。おあいにくさま、あたしはフィリエル・ディーよ。そして、あなたの思い通りになどならない。失敗しているのはあなたのほうよ」  フィリエルの後ろから、バードのため息が聞こえた。 「フィリエル……フィーリをそんなに挑発して、いったい何になるんです」 「そこにいるのは、だれだ」  老人は目をかっと見開いたが、その黒い瞳には、映るものがないことは明らかだった。 「アーベルの声紋をもつ者が、そこにいるはずがない。あやつは更新中だ」 「そうですね。ですから、わたしはたぶん反逆者です」  ついに覚悟を決めたように、吟遊詩人は進み出て賢者に言葉を返した。 「現女王コンスタンスの命により、このわたしはあなたから接続を切り離しています。フィーリ、八十年前にわたしが送られてきたとき、本来ならばするべきだった世代交替を、そろそろ実行しませんか。わたしも今では研鑽《けんさん》をつみました」  老人は皮肉な様子で眉毛を動かした。 「たかだか八十年で何を言う。そなたがこのわしにとってかわることができるなどと、コンスタンスは正気で考えているのか。あれは、以前から、はねっかえりで考え方の性急な女であった。グラールの最終局面を彩《いろど》る女だ」  バードは単調な声で言った。 「あなたは以前からそう言って、終末が間近なことを予言し、交替を拒否してきましたね。貯えた九百年のデータを自分のものとし、わたしに引き継がせようとしなかった。しかし、それは、あなたが九百年のうちに習い覚えた、たんなる権勢欲ではないでしょうか」 「わしが審判者だ。創始の時代からこの世界の変転を見届けてきた、このわし以外に、世界を回す判断の下せるものはいない」  フィリエルの耳にも、老人の声は力強く響き、よほどの確信と豊かな情感がこもっているように聞こえた。フィーリはさらに言った。 「性能が問題なのではない。この世界とともに歩んだ積み重ねがなくては、この世界の機微《きび》を変数にとらえ、ロジックを駆使することさえできぬと言うことだ。そなたは青い。そなたにはできない」  くちびるをなめてから、バードは言葉を返した。 「あなたは以前からそう言って、バードが足で集めるデータを搾取《さくしゅ》しましたね。せめてこの八十年間分は、わたしにも発言権がありませんか?」 「最終局面の八十年だ。このような時代は、正常なグラールとも言えぬ。女王の交替もままならず、女王の末裔《まつえい》はみな欠陥品《けっかんひん》である」 「失礼ね」  思わずフィリエルは口をはさんだ。 「お年寄りだからって、何でも言っていいと思わないでよ。グラールの男性は、女の人に敬意を払うものなのに、元じめのあなたがそんな態度でいていいの?」  しかし、フィーリは一度に一人の人物としか会話しないらしかった。バードのほうを向いた彼は、彼女の主張を頭から無視して続けた。 「フィリエル・ディーはもっとも欠陥をそなえた、グラール女王にふさわしくない者である。女王制を複数にしてみるのも、最後の試行錯誤《し こうさくご 》としての価値はあるが、かの者だけは加えるわけにいかぬ。東方の勢力に屈するようなものだ」  バードは少々口ごもった。 「わたしには、まだその根拠が見出せないのですが……」 「わしはデータを解析している。フィリエルとともにいる東方人からとったものだ。この男は、成長期をグラールで過ごしていようと、まったくの東方的傾向を示している。すなわち、星仙女王に反逆し、砂漠の東へ逃走した騎士の流れを汲む、反世界の傾向だ。これになじんでいる、フィリエルのこれからも予想できようというものだ」 (東方人……)  ぎくりとして、フィリエルはルーンを見やった。ルーンは無表情にフィーリを見つめており、少しも動揺を見せなかった。しかし、今の彼は、はっきりと身構えていた。もう、忘我《ぼうが 》の様子はしていなかった。  フィリエルはバードの弁護を待ったが、バードときたら、灰色の頭をかいて困ったように言った。 「もしかしたら、フィリエルにそれらを取り込む器量があるのではと、コンスタンスも期待したんですが……だめですかね……」 「だめだ」 「わたしだって、あなたのデータベースを引き継げば、よりよい判断が下せると思うのですが。どうしてもゆずってくれませんか」  こぶのある杖を持ちなおし、老人はおごそかに告げた。 「今さら交替したとて、この先には終末を宣告する以外の仕事は残っておらぬ。それならば、このわしがすべてを完遂《かんすい》する」  そのとき、初めてルーンが口を開いた。 「ぼくに報復する仕事は、残っていないのか」      三  フィーリがゆっくりと、顔をルーンの方向へふりむけた。 「そなたは……」  老人に確認させるように、ルーンは言葉を続けた。 「あんたは、バードの口を借りて報復すると言っていたじゃないか。でも、使役《し えき》するバードがいない今は、何一つ自分でできないんだ。空から怒りを降らせてみるかい。ぼくがいるのは、あんたの塔の中だけど」  老人は顔をしかめた。 「これはまったく、不本意な事態だ。こんな害虫が、北極まできてうろうろするとは。バード、そなたをさっさと吸収して対処するぞ。接続しなさい」  バードが肩を落とした。 「ルーン……フィーリをそんなに挑発して、いったい何になるんです」 「いやがらせくらい、してもいいだろう」  ルーンは服のポケットに手を入れると、火薬玉をつかみだし、別のポケットからは、スミソニアンの考案した発火用具——こすると燃えるリン化合物《か ごうぶつ》を塗った棒——を取り出し、火をつけて放り投げた。 「こういうことだって、できるんだ」  はでな破裂音が鳴り響いた。その音響《おんきょう》は、金属の室内ではさらに威力を増していた。耳を押さえ、いがらっぽい煙に咳きこんだフィリエルは、老人の反応を見届けることもできず、胸がすくとは言いがたかった。  バードがあわててルーンの腕をつかんだ。 「破壊はなしだと言ったでしょう。フィーリの機構を壊されたら、わたしだって終末宣言しかできなくなります」 「こいつは音だけなんだ。壊すところまでいかないよ」 「何を言っているんです。精密機器に煤塵《ばいじん》は大変な脅威ですよ」  そのとき、最初に聞こえた女性の声が、今度も無感動な口調で告げた。 「緊急事態発生。緊急事態発生。R23領域で煙探知機が作動しました。R23領域で煙探知機が作動しました——」 「まったくもって、許せぬやつだな」  老人がつぶやいた。煙の薄くただようなかで、彼の姿は前よりさらに白く輝いて見えた。 「ルンペルシュツルツキン、そなたを消去するだけで、この世界の終わりは数年から数十年延びると予測するぞ。この手で消しておくのが世のためだな」 「どうやって」  ルーンは言い返した。 「あんたは、自己保存を知っている。自分を惜しんでバードに引きわたせないでいる。そういうあんたには、ここに白い光を降らせることなどできない」 「九百年間存続したこのわしに、手だてがそれしかないと思っているのか」  老人は、顔のしわを深くした笑みを見せた。 「わしが、ここから動くこともできないとふんでいるのか。その思い上がりをただしてやろう」  黒いテーブルの中央から動かなかった老人が、一歩ふみだし、二歩ふみだした。それから、年寄りにしては身軽な動作で、ひらりと床に着地した。さらには、杖を斜めにかまえながらルーンに歩み寄ってきた。  ルーンはぽかんとして見守った。床に並び立ったフィーリを見れば、そびえるように背が高く、肩も腕も大きかった。 「あんたは、映像だ……」 「そうかな」  老人はこぶのある杖を振り上げ、打ち下ろした。ルーンはかろうじて避けたが、かたわらで床を打つ激しい音をきいた。 「映像と思うなら、なぜ逃げる?」  巨人のような彼の腕力を見てとり、フィリエルは悲鳴をあげた。 「ルーン」 「来るんじゃない」  ルーンは叫んだが、もうフィリエルを見やる余裕はなかった。フィーリが彼をフロアの壁ぎわに追いつめていた。  われを忘れて突進したフィリエルは、老人のわき腹に体当たりした。だが、相手は小ゆるぎもせず、吹っ飛んだのはフィリエルのほうだった。気づいたときには、二、三フィートも飛ばされて床をすべっていた。 「では、望むところの報復だ」  老人は、少女の当て身など気づかなかったように、ルーンに向かって言った。そして、太い杖を頭上に大きく振り上げた。 「接続しました」  ふいにバードの静かな声がした。  その一瞬に、杖を振り上げたフィーリは消え失せていた。むだと知りつつ両腕を頭にかかげていたルーンは、あきれて息を吸いこみ、黒いテーブルを見やった。老人は先ほどと同じように、杖をついて中央に立っていた。  そっけない口調でフィーリが言った。 「続きはそなたにまかせる。やれ」 「どういうこと?」  思わずフィリエルが叫ぶと、バードが気のない声で説明した。 「つまりですね。今のはフィーリの暗示なんです。あなたがた、長いあいだ彼を見つめていたでしょう。そのせいですよ」 「だって、実際に……あたし、彼にはね返されたというのに」 「あり得るんですよ、そういうことは。暗示で頭の骨をたたき割られたと信じれば、ショック死することもあり得ます」 「だが、その男は暗示に強い。死にはしなかっただろう。彼を始末するには、肉体的な手段が確実だ。そなたがやれ」  フィーリが重ねて言い、吟遊詩人は、老人に目をやってため息をついた。 「そう言えば、フィーリ……足は、ありますか?」  老人はけげんそうに眉をひそめた。 「どういう意味だ」 「文字どおりの意味です。あなたの足、消えてしまいましたよ」  フィリエルもそれを認め、目を見はった。白い長衣の裾がにじんだようになり、足は見えなかった。その様子は、テーブルにたたえられた黒い水に、足先だけ少し沈んだように見えなくもなかった。 「なぜだ……」  さらにじわじわと沈んでいく自分に、フィーリは不思議そうにつぶやいた。 「修復しない……なぜ画像が修復しないのだ」 「主導権がわたしにあるからです」  落ち着きはらった口調でバードが言うと、フィーリは腹を立て、眉毛を逆立てた。 「不可能だ。そなたとわしに力比べができると思っているのか。たかだか八十年の蓄積《ちくせき》で、どれほどのロジックが使いこなせると——」 「現実をごらんなさい、フィーリ。あなたらしくもない。現在、わたしは正しくあなたに接続しています。そして情報が流れこむのは、わたしからあなたではなく、あなたからわたしですよ」 「こんなことは不可能だ」  老人はややあせったように見えた。彼の体は、すでに腰までテーブルに沈んでいた。 「わしに何をした。汚い手を使ったな。このわしの抹殺をはかるとは忘恩《ぼうおん》な——」 「汚い手ではありません」  どこか悲しそうにバードは言った。 「フィーリ、たしかにあなたは、九百年の長きにわたってこの世界を守ってきました。わたしは尊敬しています。あなたのその自負心の強ささえも、進歩の証し、人に近づくことのできる知恵の深さだと言えるからです。ただ、あなたは動かなかった。あなたのデータはつい最近まで、鏡や空の星から中継されたものに限られていました」  フィーリは歯がみしてうなった。 「説明にならぬ。どうやってわしを乗っ取ったかを早く言え」 「わたしはこの体を、地上で培養しました。フィリエルがわたしを育ててくれました」  胸に手をあててバードは言った。 「完全体になるまでの二カ月半に、得られた情報量の膨大さといったら、あなたが何百年かけても思い及ばないものでしょう。これはもう、データ収集の域ではなく、体験と呼べるしろものです。恐ろしく雑多でありながら、相互作用があり、密接に結びあって機能している。わたしはあなたに何もしていませんが、あなたにこの情報処理能力はありません。今となってはおわかりですか」 「何という掟《おきて》破りを。その娘がバードを育てただと?」  フィーリはどなりたてる勢いだった。 「わしの結論が正しいのだ。今すぐ、その娘を女王国から排除するべきだ。これほど高次の漏洩《ろうえい》があったからには、世界が今までのように回るはずがない。クィーン・アンの誓いが破られているぞ。すぐさま、ここから——」  しかし、老人がわめくのもそこまでだった。あごまで沈んだフィーリの口もとが隠れていった。さらには、つり上がった彼の目もとも沈み、動く眉毛も沈んだ。最後に残った白く尖った帽子が、塔が沈みゆくように黒いテーブルに消えていった。  老賢者が消え去るまで、フィリエルは床に座りこんだまま立つこともできずにいた。ルーンも同様で、片隅の壁にへばりついたまま、身じろぎもせずにいた。  吟遊詩人が長いため息をついた。 「……終わりましたね」  その一言を聞いてようやく、フィリエルは体が自由になった。まっ先にしたことは、老人に突撃したのと同じくらいの勢いでルーンに駆け寄り、ものも言えずにしがみつくことだった。  バードは、そんなフィリエルをしばらく見つめてから、穏やかに歩み寄った。 「お手柄でしたね、ルーン。おかげでフィーリは、みごとに油断しましたよ」  ルーンは彼に文句を言った。 「あんな反撃がくるとわかっていたら、考えたよ。完ぺきにふるえあがった。ショック死があってもおかしくないよ」  フィリエルはようやく顔を上げた。 「あたしだって、心臓が止まると思ったわ。ルーンに無茶をさせたのは、バードだったの?」 「乗っ取りの最初の数手を、フィーリに気づかれたくなかったんです。カウンターをかけられたら、歯がたたなくなるところでした」  あごをなでながら、バードはほほえんだ。 「それにしても、大胆な態度でしたね。フィーリのあの画像は、たいていの人間を威圧するようにデザインされているはずなんですが」  ルーンがフィリエルに言った。 「一番大胆なのは、きみだったぞ。いったい、フィーリに飛びかかってどうなると思ったんだい。武器もないのに」  フィリエルは黙ってもう一度ルーンを抱きしめてから、ゆっくり言った。 「あたしたち……あのおじいさんを殺してしまったのね。そりゃあ、あちらも思いっきりあたしたちを否定してくれたけれど……それでも、なんだかつらいわ。できれば、わかってほしかったのに」 「いいえ、わかったんですよ。このできごとは、こんなふうに考えてください」  バードがやさしい口調で言った。 「わたしにあなたたちが認められるということが、すなわち、フィーリに理解されたということなのです。なぜなら、今ではすでに、彼がわたしの中に統合《とうごう》されているからです。表層プログラムとしての、あの頑固じいさんはたしかに解除されましたが、このわたしだって、九百年もたてば、あのくらい意固地《いこじ》になっているかもしれませんしね」  フィリエルはまばたきしてバードを見た。 「本当に、今はあなたがフィーリなの? 世界の果ての壁も、真昼の星も?」 「まあ、そんなところです」 「ルーンに報復するのも?」 「そのデータなら、ここへ来る前からもっていましたよ。でも、殺さなかったでしょう。今となっては、ますますそれはできません。ご老人はああ言ったけれど、わたしは忘恩の輩《やから》じゃありませんから」  ルーンはやや冷たく言った。 「それでも、フィーリが出した結論は、あんたのどこかには埋まっているんだろう。今日明日じゅうにその意見がひるがえるものではないにしても、ぼくはやっぱり、あんたを信用しないよ」  バードは彼に笑顔を向けた。 「気になるなら、記憶を消してあげましょうか」 「ことわる」  少し考えてから、フィリエルはあらたまった口調でバードに言った。 「あなたが、フィーリとバードの両方の存在になったというなら、あたしは、もう一度あなたに問うことにするわ。ブリギオン帝国の軍隊からこの国を救うことは、可能なの、不可能なの。三人目の女王候補は、存在していいものなの、悪いものなの?」  真剣な光をたたえた琥珀色の瞳をのぞきこんで、バードはものやわらかに答えた。 「肯定の言葉がほしいんですね、フィリエル。あれほどフィーリの否定を聞いた後では、無理もありませんが。けれども、わたしの誠実な答えとしては、わかりませんと言うしかないんです。わたしはフィーリを乗りこえて、彼の拒絶を中和したのだと考えてください。でも、その先は、あなた自身の能力と行動とで、肯定を勝ち取るしかないんです」 「……終末宣言の危機は、ほんのわずかも先のばしになっていないということね」 「まあ、残念ながら」  フィリエルの耳に顔をよせて、ルーンが言った。 「ほら、ごらん。こいつを味方だと思うとばかを見るよ」 「でも、存在してはいけないと言われるのとは大違いよ。あたし、それでもいいって気がしてきたわ。あたしはこのまま、女王になる努力をしていいということだもの。気持ちも、好きなものも、何一つ変えずに」  言っているうちにフィリエルは、本当にそうだと思えてきた。保証をもらう必要はない。どんな賢者にも、未来を保証できるはずがない。この両手でこの足で、探しにいくしかないのは当たり前のことなのだ。 「ああ、そうだ。フィリエルに王位請求権があるかどうかは、結論が出ていますよ」  今思いついたように、吟遊詩人が言った。 「古来、女王候補が王位請求権を成立させるには、『青の騎士』——つまり、老賢者の支持が絶対となるんです。当然ながら、これはまさしくフィーリのことを指しています。今はわたしがフィーリですから、一も二もなく賛成ということで、決定しましたね」  フィリエルはルーンと顔を見あわせた。 「『青の騎士』ですって、彼」 「……やっぱり、ちょっとは味方かもしれない」  バードは楽しげに言った。 「『青の騎士』のお母さんだった女王候補も前代未聞ですよね。そして、この新生のフィーリは、とっても身びいきなんです」  バードのおかしな自慢が終わらないうちに、彼の背後で、三たび女性の声が語り始めた。 「エラー5750、エラー5750。強制換気を実行します。場内|真空《しんくう》になるため、シールドをかけてください。くり返します——」 「こりゃあ、いけない。早く出ないと、ここは空気がなくなります」  バードが急にあわてふためいた。 「まいったな、煤《すす》のせいですよ。自動的に清掃するようになっているんだ」  ルーンが不審そうに彼を見やった。 「なっているんだ、って。あんたがここを掌握したんじゃなかったのか?」 「何ごとにも、慣れってものがあります」  二人を階段にせきたてながら、バードが言った。 「こんなに巨大な体、全部コントロールできるようになるまで数カ月かかるでしょうよ。さあ、行きましょう」  ルーンは、去るとなったら名ごり惜しくなったのか、階段の前で立ち止まって、三色の光が明滅する黒テーブルをもう一度ふり返った。フィリエルもいっしょになって見つめた。 「もう、女王陛下の鏡には、老賢者の姿が現れなくなったのね。これからは、陛下の鏡は何を映し出すのかしら」 「バードの人相では、まず威圧は無理だろうね」 「おいおい決めていきましょう。ただ、今の一部始終は、コンスタンス陛下が部屋の鏡で見守っていたことと思いますよ」  バードは言い、確信をこめてつけ加えた。 「たぶん、快哉《かいさい》をあげておられるでしょうね」      四 「もちろん、今すぐすべてが変わるわけではありません」  麦わら帽子のつばに手をやり、吟遊詩人が言った。 「ある意味、わたしもまた影の存在ですから。わたしが意見を変えても、グラールの国内情勢は、相変わらず聖堂関係者がはばをきかせているし、貴族間には小ぜりあいが絶えませんしね」  彼らはグラール国境の門まで来ていた。フィリエルとルーンが、ケインとともにミルドレッド北部へ向かい、ヘルメス党の人々に合流するのに対し、吟遊詩人は中央街道を通ってハイラグリオンへ帰る気でいた。統合した能力のコントロールに自信がないので、飛ぶ道を使わないそうだ。 「——それでも、あなたがたがシンベリンに戻ってこられるようにするくらいのことは、すぐにできると思いますよ。陛下も努力されると思いますし」  ルーンの顔を見て、バードは言った。 「あなたが、王立研究所を隠蔽されていると言ったことは、的を射ていました。どのような形にできるか、いつのことになるかわかりませんが、ゆくゆくは、これを解放できるといいですね……あなたがたのために」 「期待してないけれど、待っているよ」  彼としてはまあまあの愛想で、ルーンは答えた。 「そのうちに、また連絡します。わたしが、フィーリとしての修行をすませたころに」  フィリエルは、日射しに目を細めてバードを見やり、うれしげに言った。 「なんだか、とっても立派になったわよ、バード。そういう言い方、本当にふつうの、当たり前の友だちか何かみたい」 「そうなんです。わたしが『そのうちに』と言って別れることが、どれほど画期的か、そちらの二人は知らないでしょうね」  ルーンとケインは、にこにこするバードを見つめた。ケインが口を開いた。 「だいたいは察しますよ。催眠術で思いちがいをさせるんでしょう。あなたという人はいなかったとかなんとか」 「さすが、当たっていますね。でも、あなたがたはたぶん、すでにその暗示にかからないでしょう。それほどに深く、わたしの言動にかかわってしまっている。そこが画期的なのです」  まじめな口調でバードは続けた。 「これが漏洩——ご老人がゆげをたてるほど怒った、世界の掟破りですよ。女王候補と定まったフィリエルを抜きとしても、お二人はもはや特殊な存在なのです」  首をかたむけてフィリエルは言った。 「あたし、ルーンとケインなら、あなたの折り紙付きになる前からそうとうに特殊な人だと思うわ」 「ええ、でも、これからはこの二人、女王候補フィリエルと袂《たもと》をわかつことはできません。わたしの記憶を維持し、わたしと連絡をとり続けるとは、そういったことを意味します」  ルーンが不機嫌な声を出した。 「袂をわかちたいなんて、だれが言った」 「死がわかつまでの拘束ですよ」 「わかってるよ、そんなこと」  ケインがひょいと肩をすくめた。 「まあ、彼女に出会ったその日から、そんなことになるのではという気はしてましたよ」  フィリエルは目をまるくし、それからほおを上気させて、口もとに指をあてがった。 「わあ……なんだか、すごい。なんだか、まるで、結婚の誓いみたい……」  いきなりルーンが彼女につめ寄った。 「どうして、ぼくとケインが同列なんだよ」  ルーンの怒った顔を鼻先に見ながら、フィリエルは言った。 「あたし、ケインのこと好きだもの。それに、ルーンはエディリーンのお墓の前でも、なんにも誓ってくれなかったじゃない」  ルーンは一瞬|鼻白《はなじろ》んだ。 「きみ、もしかして、そういうことを言ってほしかったの?」 「いけない?」 「……でも、女王家には、結婚の制度がないんだろう」 「あたしの母は結婚しました!」  ケインは、習性によって二人の口論から遠ざかりながらつぶやいた。 「ふーん、どうりで、よく逃げ回ると思った……」  吟遊詩人は、帽子をとって彼にあいさつした。 「後をよろしく。わたしは、もう行きますね。まるで目に入らないようだから」  ミルドレッドの首都アッシェンドを北に抜け、山裾に近づいたミルタ村のはずれまで行くと、バーンジョーンズ博士とその一行が避難する農場があった。  ひなびてこぢんまりした場所であり、研究設備はととのっていなかったが、研究者たちはかえって健康そうになり、それなりにくつろいでいるようだった。  アッシェンド郊外で双子が出迎え、先に知らせがいったこともあって、ケインとフィリエルとルーンは、無事を祝うパーティとともに熱烈に迎えられた。どこか能天気なバーンジョーンズ博士は、自分たちがあわやの逃亡をしたことなど念頭になく、保養地にお気に入りの甥《おい》や姪《めい》を迎えたような顔をしていた。  彼らとの再会を充分喜びあった後、フィリエルはパーティ料理の残りを手にして、どきどきしながら牧場へ出かけた。馬や牛、羊などの囲いを通り抜けたところに、一棟だけ離してユニコーンの厩があった。  鮮やかな空色のユニコーンは、フィリエルが見つけたとき、柵のずっと向こうでしきりに身づくろいをしていた。真珠色の角をわき腹にこすりつけ、フィリエルとルーンが並んで柵に近づいても、見向きもしない。 「やっぱり、忘れられちゃったわね……」 「そういう生き物だよ。落ち込まないほうがいいよ」  名前を呼ぶと、ルーシファーは耳を立て、気のりのしない様子で近寄ってきた。どういう人間か見極めようと、距離をとって立ち止まる。 「でも、元気でいてくれたから、それだけでよかったわ。ルーシファー、ゆでたまごよ」  好物を目にしたルーシファーは、すぐに食べにきた。長い角がそばまで来ると、ルーンは条件反射で後ずさったが、ユニコーンは関心をもたなかった。  けれども、フィリエルの手からゆでたまごを食べ、もっととさいそくしたときに、彼はぼんやり何かを思い出したらしかった。  それは、もしかしたら思い出したのではなく、あらためてフィリエルの声や匂いを、大の好みと判断したのかもしれなかった。ともかく、空色のユニコーンはフィリエルの手に顔をこすりつけ、なでてくれとせがんだ。 「すぐにまた、きみのユニコーンになりそうだね」  用心深く近寄ってきたルーンは、感心して言った。 「育てた人間は、やっぱり強いな……」 「でも、この子、ルーンのことを忘れたみたい。ちょっとこれをあげてみて。柵ごしだから大丈夫よ」  フィリエルは、二個めのゆでたまごをルーンにわたした。ルーンは、はた目には笑えるほどおっかなびっくりの態度で、腕を柵の中にさしいれた。  ルーシファーは、彼には愛想をみせなかったものの、ぱくりと食べた。再び発見したフィリエルに気をとられていたとはいえ、ユニコーンはだれからでも餌をもらう生き物ではなかった。 「うわ、食べた」  フィリエルは、ルーンが見かけ以上に喜んでいるのを感じることができた。彼は、態度にあまり出さないけれども、じつは動物好きなのだ。ルーシファーにいつまでもすごまれることで、本当は心を痛めていたのかもしれない。 「毎日いっしょに餌をやりましょう。そうすれば、もっと心を許すようになるわよ」 「こんな日がくるとは、思わなかったな」  柵の横木に両腕をかけ、ルーンはしみじみ言った。フィリエルは、空色の首筋をなでてやりながら、思いきってたずねてみた。 「ルーン……自分が東方の人だって、前から知っていた?」 「うん」  意外にためらうことなく、ルーンは答えた。 「旅芸人の一座ではよく言われたから、そういうものだと思っていたよ」 「あたしは、ルーンから一度も聞いたことがなかったのに」 「ディー博士がこの名前をくれて、メガネをくれたときに、分離したつもりだったんだ」  太陽が山陰に落ち、淡くなってきた空を仰いでルーンは言った。 「そうもできないってことが、よくわかったよ。でも、いいんだ。ぼくに問題があるとしても、それは東に生まれたせいじゃない。それに、どこに生まれついていようと、今、ぼくは世界の秘密をにぎっていて、死がわかつまでグラールの女王候補のために働くんだから」  フィリエルは横目で隣を見やった。 「『フィリエルのため』って言わないの? そういえばレアンドラも女王候補だけど」 「あげ足をとらなくてもいいのに。どうして急にレアンドラが出てくるんだい」  ルーンはげんなりして言ったが、フィリエルはこの際、はっきりさせておくつもりだった。 「ルーンが話さないことは、たくさんあるって思い出したんだもの。そういえば、まだ聞いていないわよ。カグウェルの森で、レアンドラと二人っきりになって何をしたか」 「うっ……」  ルーンはつまった。どう言い抜けようか考えていると、あからさまにわかるほど間をとった後で、やっと言った。 「……やましいことは、していない」 「その態度のどこが、やましくないのよ」 「フィリエルこそ」 「あたし?」 「フィリエルこそ、レアンドラが何したと考えているんだよ」  今度は、フィリエルもつまった。少し間をおいてから、ルーンはふいに言った。 「フィリエル……二人っきりになれないって、きみでも思うことがあったって、正直言って知らなかったよ」 「だって、そうじゃない? いつもだれかしらいたし……たいていはケインがいたもの」 「だけど、フィリエルはぜんぜんそういうそぶりを見せないじゃないか……さそってもくれないし」  フィリエルは彼女の髪と同じくらい赤くなった。 「できないわよ。ルーンに向かってそんなことをするなんて。できるわけないじゃない、あなたって人は、トーラスに入学したというのに」 「トーラス?」  ルーンは思わぬ方向性に目をぱちくりしたが、フィリエルは顔を赤らめたまま、こぶしをふって力説した。 「だって、これはシスター・ナオミのステップ2だとか、それはステップ3のバリエーションだとか、いっしょに教わっている人に使うことなどできないわよ。気恥ずかしくて」  魔女の学校へ行ったことが身の不幸だったと、つくづく実感するルーンだった。 「あのさ……シスター・ナオミの授業なら、ぼくは頭から寝ていたよ。シスターがノートをとるなと言うものだから」 「本当に?」 「ためしてみればわかったのに」  夕暮れのせまる谷間の牧場で、柵に寄り添う二人は見つめあった。ファーディダッドの山陰は紫、なめらかな草地は半ばまで影に覆われている。だが、フィリエルの髪には山ぎわの残光《ざんこう》がやどり、燃え立つあかがねに染まっていた。向きあうルーンの髪は夜の暗さだが、彼の灰色の瞳は、薄闇のなかで初めて星のように輝くことがある。  絵のように静止した一瞬がすぎた後、二人はどちらからともなくため息をつき、肩を落とした。 「今だって、きっと、二人っきりじゃないのね……」 「うん、たぶんね……」  じつをいえば、ケイン・アーベルはこの場にいなかった。  彼であっても、ばかばかしいと考えることはあったのだった。 [#改ページ] 解説 ブルグミュラー二五番 [#地付き]菅野よう子  五線譜に書かれたオタマジャクシは、ドやレの音を示すただの記号だ。けれど、それの意味するものは立体で、色があって、匂いも温度もある。  オタマジャクシが水滴や飴玉になって跳ね出して、昔弾いてたただの練習曲が、実はすてきな曲だったことに、気付かされたりする。  世界の民話二〇〇、という分厚い本を、子供のころ繰り返し読んだ。  竜退治、物知りの王子様、おしゃべりするカエル、穴のあいた手袋かたっぽう。  大きくてかなわないものに憧れ、小さくてくだらないものを愛しいと思った。私というにんげんはそのどちらでもなくて、ただ中途半端な、いじきたなくズルい生き物だった。  あり得ないおはなしに逃げ込んでも、自分のからっぽは埋まらない。  私は一〇歳になる前に、ファンタジーが嫌いになった。  そのころ、ものごとは白か黒しかなく、全き善でなければ、残りのものは悪だった。灰色かぶったものが、ものがたりの主人公になることはない。神様は最初から神様で、少しくらい悪いことをしてもかまわないけれど、醜いものはその醜さゆえに退治される。  自分の中からよこしまな想いがどんどん生まれるのを、他人みたいに眺めていた。なんにも感じない、と言いふくめた。目は開いていたが、〈見て〉いたわけではない。  あのころの風景を、私はほとんど思い出せない。  そんな私も、大人になる。  灰色の、どっちつかずの、正しくもなく、良くもない。人間とは、そういうもの。  朝と夜の境、海と空の間のけぶったところ、そのぼんやりしたところに真実があるという、アイルランドの人の言葉を知ったのは、いつのことだったか。  おろかでも、自分の王国の創造主である私。お姫さまとして生まれ育たなかったけど、ネズミ色した暗いこの場所に、生きていてもいい、私の場所があると思えた。  音楽は芸術、という理想と、その芸術でお金をもらう屈辱の間にいて。  自己を極めたい思いと、求められる音に応えたい気持ちで揺れ動いて。  葛藤がないものは、つまらない。ふたつの境い目に漂ったりしがみついたりしているものが、好きだ。  大きな声で自分にそう言ってみる。  節度は、両目でものを見てから持てばいい。正しいことも汚いこともかかえ、不安と揺らぎの中にいる自分を、そろそろ認めてやりたかった。  生きることを生々しく味わう、〈B級〉とはその味なのだと思う。かっこわるく、うさんくさく、だらしない。  いつかマシになろうとジタバタする、その毎日が素敵なのだ。  一〇歳で放棄して以来となる、ファンタジーのものがたり。  はじめまして、荻原規子さん。私は音楽をやっている菅野よう子といいます。  そういうわけで、読まず嫌いになっていた〈お姫さまもの〉に、私の夏の夜が占領されました。  寝る前に少しずつ読む習いが、気がつくと朝も昼も操っていました。たくさんのページに折り目をつけました。数日おいて、ひさしぶりに開いた章からでさえ、世界の果ての壁を抜けるようにすぐ、フィリエルたちのいるところに行けました。  用意周到などお呼びでない女王候補たちと、しょうがないなあ、と苦笑いで見守るナイト〈騎士〉たち。そして、旅人。  どういう歳になったら、学習できなくなるんですか。  吟遊詩人〈バード〉が言う。  自分で作り上げた決めごとにしばられて生きているとき、旅人はそばにきて不思議そうな顔で尋ねる。あなたはどうにも不幸せなように見えるけれど、いったいどうしてこのぬかるみにとどまっているのですか。  透明な目玉でものを映す旅人の生き方が、何より気に入りました。  古い翻訳詩みたい、アンティークな文章のなかに、とつぜん、〈アクセスしにゆく〉なんて現代的な言葉が出てくると、それだけでほんとうにドキリとしました。  田舎の祖父の家の二階には、当時めずらしく洋間があり、足付きのステレオとソファーが置いてありました。  私が今コンピューターや楽器を置いたりしているのは、懐かしいおじいちゃんの洋間に似てるからと買った、一九六〇−七〇年代のアメリカの家具の上です。  大衆的でグラマラス、安価、大量生産の消耗品。プラスチックの、継ぎ目のない椅子だの、塗料が溶け出しそうなコーヒーカップだの。  それが、今アジアの片隅に平気で鎮座まします様子。それが、この物語のたくましさと似ているように思えました。近代的なしつらえと、元気でうさんくさい家具のとりあわせ。雑多で、粋で、私の大好きなたたずまい。  誤解をおそれて言い訳を重ねるなら、当時のモダンな家具は今、どこの国でも大人気で、高く取り引きされています。  音楽家は、オレのパートにも見せ場を寄越せとか、このコンサートに出てやるから良い曲用意しろだの、さまざまな生臭い欲望と無縁でいることが難しい職業です。誰かに演奏していただくしか、形にしようがないのだもの。  ご機嫌取ってでもその場を丸くおさめるために立ち回る日々が、実はほとんどです。偉そうにしている指揮者さえ、この指揮者をゲストとして招くに値するか、といったオーケストラ団員へのアンケート項目に丸をもらわない限り、演台の上に立ち続けることはできません。あらゆる職業の中でも一番と言えるほど、腰が低くなければ成り立たない商売です。  小説家はそういうしがらみから解き放たれていていいなあ、と思いながら読んでいて、それが大変な間違いかもしれないと途中で気がつきました。  この小説の中のルーンや姫、主役たちはもちろんのこと、脇役までがみな、生きて自己主張するかのごとく野蛮に振る舞っていました。手抜きのアレンジをすると文句を言う、気分屋のミュージシャンのように。  頭だけでものがたりを紡いでいたら、こんなふうには書けない、と、感じました。  人との関係に悩んだり苦しんだり、書き手が日々を大切に生きていればこそ、こうした夢の中の人物にさえ、体温を与えてやれる。  ジタバタしながら、人と関わりながら、作られるものの手触り。  その感覚は、同じようにして作品を作るしかない私の、肌になじみのものだったから。  練り上げられた幻想の世界、服でも音楽でもストーリーでもいいけれど、それを目の前にして、作り手が生身の人間であることを実感するのは難しい。ファンタジックであればあるほど、なまぐささも覆い隠されている。  美しい旋律に、これを作った人は神様のようなこころの持ち主に違いない、なんて思ったりする。  霞を食って生き、森の中で精霊の声を聞いて作った、そう言われれば深く納得してしまうだろう。  しかし。美しいものを生み出す毎日というのは、案外汗くさいものだ。  まるで入院してるみたいな格好で、家から出ない一ヶ月。  お風呂の中に五線紙、ベッドの横にも五線紙、歩きながら、揺れる車の中で、いつも五線紙。  見ない、聴かない、遊ばない、映画、ゲーム、もってのほか。  睡眠が足りなくても平気なからだ。  すわりっぱなしでも痛くならないやわらかなせぼね。  腱鞘炎になってもすぐ治る、コラーゲンたっぷりのかんせつ。  明日締め切りなのに、友達の悩み相談に一晩つきあえる体力。  スタッフの急な呼び出しに、伸び放題の髪のまま飛び出す深夜三時。ねじこまれる、断り切れない特急仕事。  この譜面が終わったらごほうびに食べよう、と、買ったケーキの賞味期限が切れて五日。でも買い物に行けないから、いいや、これ食べてしまえ。それでも壊れぬ丈夫なおなか。  ひとつ書いても、誰も何も言ってくれない。影に向かって問いかける。コレデ、本当ニイイノ? コノ出来デ、本当に納得シテルノ?  誰も答えないから、自分で、これがサイコウ……なはず……と尻すぼみにつぶやく。  つまりそれは、現在のところ私はここまでが精一杯です、と、自らの限界に線を引く日々のこと。  何日もかけてこれしかできないのか。ハイここまでです。  内側に責めはじめたら先に進めなくなる。だからしかたなく、納得しなくともひとまず放り投げる。そのために、締め切りがある。  作り手のこういう毎日は、読む人の夢を壊すかもしれません。私は、この作品の感想を装いながら、自分に寄せられる美しき誤解を、ほんの少し解きたいようです。  他人の夢の話はおもしろくない。夢の中でこんなに盛り上がったと滔々と述べられても。  それは〈夢〉で、聴き手の人生になんの影響もないから。それでも、思わず先を聞きたくなる夢、考え込まされてしまう他人の夢があるとしたら、それがファンタジー小説なのだと思う。  お話としておもしろいもの、自分も見たことがあったような、身につまされるもの、語り手の深層をかいま見せてくれるもの……。  小説も音楽も、生きることに関係しない。しかし、他人の人生に一瞬でも関わろうとすれば、昨日みた夢をおもしろく語れる話術や、夢みる力、その作者の人間的魅力が欠かせない。人に揉まれ、体を使って生まれる表現が、こころを掴むことができるのだと思う。  これだけ細部まで磨かれた文章をつむぐ荻原さんのこと、きっと、少女ファンタジーなどといううさんくさいジャンルでなく、純文学に進出〈!〉しないんですか、と何度となく問われたのではないかと想像します。でも、そんなところに進出〈?〉しなくていいんですものね。  自分に向かって掘り下げれば純の名が冠につき、外にむかって掘り下げれば俗っぽいと言われる。  なんと呼ばれようと、読み手に届くことをのぞんで書き、誰かに聴いてもらうことを前提に、私もいつも演奏していたいと思います。  ピアノを習うと、バイエルの次の次くらいに弾かされる、ブルグミュラー二五番、という小品集があります。  ブルグミュラーさんは、一八〇〇年代なかごろ、貴婦人たちのサロンで自作のピアノ曲を演奏する流行作家だったそう。貴婦人のたしなみとしてピアノが弾かれていた当時、誰でも易しく演奏できる彼の小品は、人気がありました。  作品のタイトルをみると、牧歌、スティリアの女、帰途〈春、アルプスを超えて南へ出稼ぎに行っていた父親が帰ってくる。峠に迎えにいくときのはやる気持ち〉、伝説〈竜退治をする聖人〉といったものが並んでいます。  ファンタジー小説を楽しいと思う気持ちは、淑女がサロンでピアノの小品を楽しんだ昔と変わらないかのようではありませんか?  ブルグミュラーのように誠実な職人として、豊かなものがたりをたくさん、世に放ってください。応援しています。 [#地付き](作曲家)  [#改ページ] [#ここから4字下げ] この作品は書き下ろし外伝として単行本『西の善き魔女4 星の詩の巻』(二〇〇〇二年七月刊)に収録され、C★NOVELSファンタジア『西の善き魔女外伝3 真昼の星迷走』(二〇〇三年五月刊)として刊行されました。 [#ここで字下げ終わり] 底本:「西の善き魔女� 真昼の星迷走」中央公論新社、中公文庫    2005(平成17)年12月20日第01刷発行 入力:TORO 校正:TJMO 2007年05月19日作成 底本p198 15行目 だがら、彼女たちの脳は分業化が起こりにくく、 ———だから。誤植であろう。訂正済み。